PERSON

2023.03.16

『サンジャポ』出演、NSC講師、放送作家、小説家etc.鬼才・桝本壮志とは

最も多い時期でレギュラー18本を数えた売れっ子放送作家であり、タレント養成所・NSC(吉本総合芸能学院)の講師としては、授業の評価アンケートで10年連続の人気投票数1位を獲得。さらには小説『三人』(文藝春秋)を発表するなど小説家としても活躍し、『サンデー・ジャポン』にコメンテーターとして出演中……。その多彩な活動ぶりで注目を浴びているのが桝本壮志さんだ。

桝本 壮志/SOUSHI MASUMOTO
1975年広島県生まれ。放送作家として多数の番組を担当。AbemaTVの『FIFA ワールドカップ カタール 2022』中継をはじめ、社会現象となるネットコンテンツの企画にも携わる。母校である吉本総合芸能学院(NSC)の講師としては、授業の評価アンケートで10年連続人気投票数1位を獲得。

今回から4回にわたってそのロングインタビューを掲載。第1回は、甲子園常連校で野球に熱中した時代や、芸人を志して挫折し、放送作家としてデビューするまでの来歴を振り返ってもらう。数多くの失敗から学んだ教訓は後の講師業に生かされているものも多く、その言葉にはビジネスパーソンの成功のヒントも多く隠されているはずだ。

甲子園の常連校で副キャプテン。でも漫画も落語も漫才も好きだった学生時代

今回の取材でお会いした桝本さんの第一印象は、放送作家という職業のイメージとはかけ離れた「ガタイの良さ」。話を伺うと元高校球児で、福岡ソフトバンクホークスの柳田悠岐選手らを排出した名門・広島商業高校で副キャプテンを務めていたそうだ。

「うちはアニキも体育大学に行くようなスポーツ一家。僕も体がデカくて野球ができたので、中学校の頃にスカウトされたんです。ただ高校では、僕の1つ上と1つ下の学年は甲子園出場を果たしたものの、僕らの代だけは県予選敗退でした。

また僕には幼い頃からキャッチボールをしていた仲良しのいとこがいたんですが、そいつは甲子園にも行ったし、阪神タイガースに入団してプロにもなったんです。そこで『あいつが阪神に入るんやったら、俺はもっと上に行かなあかんな。じゃあ俺は何が好きやろ?』と考えるようになりました」

そんな時期に目指したのが吉本興業だった。

「『考えてみたら、俺はお笑いのネタを作るの好きやったな』と気づいたんですよね。そもそも小さな頃は漫画家を目指していて、『週刊少年ジャンプ』に作品を送るくらい、絵を描いたり、物語を作ったりするのが好きでした。学校でも落語や漫才をよく作っていたんです。なまじっか野球ができたから野球をしていましたが、もともと趣味趣向はそっちが強かったんですよね」

甲子園の予選敗退の夏、なんばグランド花月に直接訪問し、NSCへ入学

そして甲子園出場が叶わなかった高校3年生の夏。桝本さんは大阪のなんばグランド花月に直接足を運び、裏口の守衛さんに「吉本に入るにはどうしたらいいんですか?」と聞いたそうだ。

「僕は広島出身やったんで、昼間にテレビで流れているのは吉本新喜劇くらい。吉本にNSCという養成校があるのも知らなかったんです。でも守衛さんがいい人で、『NSCって学校があるから、今から君が行くと電話してあげるよ』と取り次いでくれました。

NSCでは作家になりたいと伝えましたが、当時のNSCに作家コースはなく、『お前は表に出てやったほうがいい』と勧められて芸人を目指すことになりました」

そして桝本さんは1993年にNSCに入学(大阪校13期)。芸人は「やってみると面白かった」という。桝本さんは2人組のコンビでボケとネタ作りを担当。出場したコンクールで同期の最上位を獲得したこともあった。ただ、自分の才能に限界を感じることもあったという。

「NSCの良さは、同期の数が多くて多種多様な才能を持った人たちが揃っていること。僕のときは約700人の生徒がいたので、自分が『700分の1』の存在であることに気づきました」

多くの人は中学や高校で、自分より圧倒的に勉強や運動ができる人と出会い、自分の才能のなさを実感することになる。NSCはそこにいるだけで「自分のお笑いの才能の有無」に気づける場所でもあったわけだ。なお桝本さんの世代は「花の13期生」とも呼ばれる才能揃いだった。

「同期には後にM-1チャンピオンになるチュートリアルやブラックマヨネーズもいたので、自分と周囲のレベルの圧倒的な差を痛感しました。

また、なんばグランド花月で行われたトーナメントで僕らがややウケだった中、野性爆弾のくっきーが『3分のネタの間ずーっと後ろを向いていて、最後に振り返って一言だけ喋る』というネタで爆笑をかっさらったときも、『うわっ俺、絶対表現者として負けてる。あかん。裏方回りたいわ』と感じました。

若い時期にそうやって自分の限界を知れたからこそ、今の自分があると思っていますし、同期に恵まれたことは、僕の後の人生の羅針盤にもなっています」

そこで吉本興業に「作家を目指したい」と再び伝えて紹介されたのが、吉本興業が当時運営していた『渋谷公園通り劇場』の座付き作家の仕事だった。

「ちなみに、僕は芸人時代、大阪の西成という所でバイトをしていたんですが、その店で『桝本がお金を盗んだ』とあらぬ疑いをかけられて軟禁され、うめだ花月の出番を飛ばす失態も犯してしまった。その経験もあって芸人に踏ん切りがつき、東京に出てきた形でした」

渋谷の劇場の座付き作家に。毎月200ページの台本を執筆

桝本さんが『渋谷公園通り劇場』の座付き作家になったのは1997年。そこでは千本ノックのように芝居の脚本を書きまくる日々だった。

「いま吉本興業の副社長を務められている奥谷達夫さんから、劇場の作家7人ほどに企画提出が求められました。そして僕も企画を提出した数日後、奥谷さんから呼び出され、『お前は書けるな。来月から月に1回、お前が書いた芝居を公演する。』と言われたんです。脚本は毎月200ページほどになりましたね」

当時の渋谷公園通り劇場には、ガレッジセールやカラテカ、あべこうじ、カリカ、ハイキングウォーキングなど、その後に名を上げる芸人たちが多く出演していた。

「ただ当時の東京には、銀座七丁目劇場という吉本興業の劇場もあり、そちらには極楽とんぼさん、ココリコさん、ロンドンブーツさんというテレビの向こうの方々が出演していました。それに対して渋谷公園通り劇場の僕らは雑草集団だったので、僕は吉本興業の上下関係にあまり飲まれずに生きていました。

この劇場は、安室奈美恵さんが登壇されたり、まだブレイク前のゆずがライブをやっていたりもしたので、違うエンタメに目を向ける機会にもなりましたね」

日テレへの飛び込み営業でいきなり『ぐるナイ』の放送作家に

ただ、渋谷公園通り劇場は、桝本さんが座付き作家になってから2年ほどで閉館してしまう。

「意を決して東京に出てきたのに、銀座七丁目劇場も含めて東京から吉本の劇場がなくなってしまい、『はい、解散。君たちはもう吉本興業の人間ではありません。明日から自分で生きていきなさい』と放り出された形でした。

実家に帰ることも頭をよぎりましたが、奥谷さんから『お前はこっちに向いてるよ』と言われて渡された『放送作家になろう』という本が家の本棚にあるのを見て、『放送作家って道もあるのか』と考えるようになりました」

そんなときに見つけたのが、劇場に公演を見に来ていた日本テレビ社員の名刺だった。

「そこで企画書を何個か取り繕って持ち込んだところ、日本テレビで対応してくださったのが大プロデューサーの桜田和之さんでした。そして桜田さんは企画書を見終わった瞬間、『明日空いてる?』と僕に聞き、すぐに『ぐるぐるナインティナイン』の現場に入れてくれた。そして僕は今でもぐるナイの仕事を続けているんですから、幸せなことですよね」

チャンスを掴むには「まず扉の前に立つこと」が必要

NSCに入って芸人になるきっかけは、なんばグランド花月への直接訪問。放送作家デビューのきっかけは、企画書の持ち込み。桝本さんはそうやって自ら現場に足を運んで売り込むことで、道を切り開いてきた。その経験から、いま講師を務めるNSCの学生たちには次のようなアドバイスをしているという。

「『チャンスを掴みたいなら、まずはチャンスの扉の前に立っとくことが大事。いろんなところに顔を出して、いろんな列に並んでみることやで』とよく伝えています。

これは芸人以外の仕事でも同じだと思いますが、プロジェクトや組織の人員が足らないとき『誰かいないかな?』とチャンス扉はいつも内側から開く。そのとき一番近くで待っていると『入ってこい』と声をかけられることが多々ありますからね」

いきなりゴールデンタイムの番組担当というのは大出世だが、その経験から桝本さんは「クリエイティブな仕事をするならまず屋上に上がれ」という教訓も伝えているという。

「年功序列の会社や職人的な仕事では、1階で頑張ったら2階に上がり、そこでも頑張ったら3階にも上がって……という『下積み3年』の生き方も必要でしょう。でもクリエイティブな仕事の場合は、一気に屋上まで上がってしまい、高い場所からの景色を一度見ておけば、下の階の景色は怖くなくなるというのが僕の持論です」

成功の鍵は失敗のカギのスペアキー。失敗の多さが成功につながる

しかし、経験の浅い人間が最前線に飛び込めば、苦労は当然多くなる。「僕はほんまに失敗の数だけやったら人の何倍もしているはずです」と桝本さんは振り返る。

「たとえば最初の頃の『ぐるナイ』の会議では、僕は『自分は元芸人なので喋りが立つ』という思い込みから、場の空気も気にせずブワーっと喋りまくっていました。すると誰も耳を傾けてくれないし、なかには僕が喋り出すと耳を塞ぎはじめる作家さんまでいました。

当然企画は通らなかったので、そこで僕は『うわっ。俺、まだ芸人を引きずってた……』と気づきましたし、『どうやったら人って話を聞いてくれるんやろ?』と考えるようになりました」

そこから桝本さんは、話し方がテーマの本なども書店で探して読み漁るようになったという。

「そこで学んだのは、人に話を聞いてもらうには、まずは自分が人の話に耳を傾けること。そして実際に、いいタイミングで相づちを打つことを意識すると、自分の話を聞いてくれる人が増えてきましたし、企画も通るようになりました。

また、日本は同調圧力が強い国であり、異物感のある新しい人間が嫌われがちなことや、年功序列の社会が続いてきたので、年上の人には年下の人間への恐怖心もあることも分かってきました。

だからこそ心を砕いて人の話を聞いて、タイミングを見計らって自分の話をする謙虚さを身につけようと考えるようになりました」

その頃に学んだ話し方のテクニックは、今のNSCの講義にも生きているという。

「僕は失敗を重ねながらも、その都度あたらしい知識をインストールし、取捨選択やカスタムも行って、自分なりの知見を高めてきたつもりです。そして僕は『成功のカギは失敗のカギのスペア』やと思っています。

僕は成功のカギは一つも持っていませんが、失敗のカギはメッチャ持ってるんです。その失敗のカギを鍵穴に差し込むと、扉が開くことがあるんですよね」

次回は、桝本さんが放送作家として仕事の幅を広げた後に、離婚などの経験も経てNSCの講師や小説家として活躍するまでを振り返る。

TEXT=古澤誠一郎

PHOTOGRAPH=杉田裕一

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