2023年1月15日のヒューストン・マラソンを日本女子歴代2位の2時間19分24秒で制した新谷仁美(積水化学所属)は、2024年パリ五輪を目指す意思がないことを明言している。10,000mとハーフマラソンの日本記録保持者は五輪が国民の支持を得ていない現状に複雑な感情を抱いており、今後の目標を5,000mとマラソンでの日本記録に定めた。連載「アスリート・サバイブル」とは……
練習法も過去の常識にとらわれない
ヒューストン・マラソンでの激走から8日後の2023年1月23日。女子マラソンの新谷仁美(にいや ひとみ)は都内で会見を開き「パリは今の時点では私の気持ちのなかにはありません」と言い切った。ヒューストン・マラソン直後にも同様の発言をしており、改めて2024年パリ五輪を目指さないことを強調。その理由を「とても言いにくい言葉ではありますが」と前置きしたうえで続けた。
「今までは五輪が正義と思われていたが、東京五輪を経験して“五輪がどれだけ国民の方に求められているのか”というのをすごく感じた。コロナの影響はあったと思うが、東京五輪ではメンタルをやられた。出ないことが正義ではない。ただ私は五輪を目指すことはありません」
パリ五輪のマラソン出場権は、男女ともに2023年10月15日に東京で開催されるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)、その後に行われるMGCファイナルチャレンジ(詳細未定)で争う。すでにMGC出場権を懸けたレースは始まっており、現時点で男子42人、女子22人が出場条件をクリア。新谷も2022年東京マラソンで出場権を獲得しているが、参加を見送る方針だ。
新谷は過去にもさまざまな言動で注目を浴びてきた。2020年7月、東京五輪の再延期や中止を求める声があることに言及。すでに女子10,000mで出場権を得ていたが「国民の皆さんが反対するのであれば、私は五輪をする必要はないと思う」と持論を展開。五輪内定選手では異例の発言だった。2022年3月の東京マラソンで13年ぶりにマラソン出場。当時の自己ベストの2時間21分17秒で日本人2位に入ったが「マラソンの魅力が分からないし走る人の気持ちが理解できないし、この一回でもう嫌、二度と走りたくない」と苦笑い。好タイムを出した直後だっただけに、周囲を唖然とさせた。
新谷は5度目のマラソンとなったヒューストン・マラソンで日本歴代2位の2時間19分14秒をマーク。19分台は日本女子では18年ぶり4人目で2001年の高橋尚子、2004年の渋井陽子の記録を上回り、2005年のベルリン・マラソンで野口みずきが樹立した2時間19分12秒の日本記録まで12秒に迫った。それでも「今はシューズの進化が大きいので、3人(高橋、渋井、野口)の評価を超えることはできないと思う。自己評価は低いです」と満足はしていない。
今後の目標はマラソンと5,000mの日本新に設定。5,000mも廣中璃梨佳の日本記録まで2秒99差のタイムを持っており、現在、日本記録を保持する10,000mとハーフマラソンに加えて3、4種目を狙う。夏まではトラックの5,000mや、5,000、10,000mのロードレースを中心に出場し、9月のベルリン・マラソンに挑む。「4つの日本記録を持つことを目標にずっとやってきた。来年も同じようなコンディションか分からない。今年がチャンスと思って臨みたい。記録を残したから何になるというわけではないが、私には結果を出すことが支えてくれている人たちへの感謝の気持ちになる」と力を込める。
練習法も過去の常識にとらわれない。2022年までは歴代のエースが月間平均で1,000km走り込んできたことに倣い、嫌々ながら走り込んだが、何度も身体に異変を感じた。猛特訓は「自分には必要ない。効率が悪い」と決心。ヒューストン・マラソン前は40km走に一度も取り組まず、走る量も月間800km強にした。
「この(月間1000kmを走り込む)練習じゃないと結果を出せないという風潮に違和感があった。私の練習法が正しいというわけではない。自分に合った練習法。自分に何が必要か、何が不要かを選ぶ力が必要だと思う」
独自の練習法の確立も、他のアスリートとは違う五輪への向き合い方も、そこへ至った道筋には重なるものがある。根底にあるのは、常識を疑い、自分で考える力だ。日本女子マラソン界で最も世界に近い位置にいるが「アスリートは結果を出すことを求められるが、結果を出すのはパリ五輪ではなくてもいい」と自身の価値観を貫く。
新谷仁美/Niiya Hitomi
1988年2月26日岡山県生まれ。岡山・興譲館高時代に全国高校駅伝1区で3年連続区間賞。10,000mで2012年ロンドン五輪9位、2013年世界選手権5位。2014年に一度引退し2018年に復帰。2020年にハーフマラソンと10,000mで日本新記録を打ち立てた。2021年東京五輪は10,000mで21位。2022年世界選手権はマラソンで代表入りしたが、直前に新型コロナウイルスに感染して欠場した。身長1m66cm。
■連載「アスリート・サバイブル」とは……
時代を自らサバイブするアスリートたちは、先の見えない日々のなかでどんな思考を抱き、行動しているのだろうか。本連載「アスリート・サバイブル」では、スポーツ界に暮らす人物の挑戦や舞台裏の姿を追う。