世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2009年7月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
考える人間の最も美しい幸福は、究め得るものを究めてしまい、究め得ないものを静かに崇めることである
――『ゲーテ格言集』より
仕事の成果、努力の結果が形になること。こと労働に関する限り、社会ではなによりもこれが重視される。もっと言ってしまえば、これしかない。学校の先生のように「努力する過程が大切なのです」と説いてくれる人は学舎(まなびや)を出ればもうどこにもいない。「努力だけはしたのです」などと大人が言おうものなら、負け犬の遠吠えと取られるだけだ。
やっかいなのは、成果や結果もひとつの現象に過ぎないことだ。勝った人もそうのんびりとはしていられない。祝宴がお開きとなれば、流砂が足下を脅かす元の世界に再び戻ることになる。勝とうが負けようが、明日はまた別の世界。
私たちの日々には、確約も確実もない。これは誰もが知っている。勝ち続ける人はどこにもいないし、それ以前に、努力を積み重ねても花開くとは限らない。ただ日常生活を送っていただけなのに、ふいの災害で命すら奪われてしまうこともある。これについてはどこまでが人災かという議論もあろうが、いずれにしろ私たちは、コントロールすることができない領域と接しながら生きている。そこに神を持ち出すのも自由。不条理とひとことで済ませてしまう人もいる。
究め得ないものを崇める。これは人としての分別を説いた言葉だ。なにごともできると信じている人間ほど醜いものはない。おのが領域を究める姿勢がある一方、他の領域に関しては、敬意をもって頭を垂れる方がいい。
ただし、この言葉を拡大解釈するなら、崇めるとはつまり、天命に任せることである。営みの結果を左右する運命はやはりある。人の生涯もこれに翻弄され続ける。
ジャン・アンリ・ファーブルは最初の妻と子供二人を病気で亡くし、失意の日々を送った。昆虫記を書き始めたのは五十代半ばからで、生涯貧困と対峙し続けた。おそらく、彼にとってはその執筆よりもむしろ、子供の頃から虫を見続けたひたむきな日々にこそ祝福があったのだろう。書かなくても、彼は自分の究めるべきものをまっとうした人だったのかもしれない。そのような意味では、無数のファーブルがいたし、無数のゲーテがいたのだ。
運命のことはわからない。その領域に対しては微笑みを向けるしかない。するとやはり懐かしい学校の先生の言葉がよみがえる。
「究めようとするものがあるなら、努力する過程が大切なのです。あとは運命を信じなさい。弱い者いじめもしちゃだめよ」
――雑誌『ゲーテ』2009年7月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。2015年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。