日本の歴史において、誰もが知る織田信長。歴史に名を残す戦国武将のなかでも、信長は極めて特異な人物だった。交渉力、絶体絶命のピンチを乗り越えるアイデア力、咄嗟の判断力……。信長の奇想天外で機転の効いた行動は、日々無理難題を強いられるビジネスパーソンのヒントになるだろう。今回は、織田信長が生涯最後に発した、女房衆に対してのひと言をご紹介! 作家・石川拓治さんによるゲーテの人気コラム「信長見聞録」を朗読という形で再発信する。
すべてを悟った信長の最期
本能寺を包囲した明智光秀の兵は、間を置かずに信長のいる本殿へと討ち入って来る。勝ち負けではなく、光秀の目的はただ信長の死だった。
なぜ光秀は謀反(むほん)したか。当時から今日にいたるまで、さまざまな説が取り沙汰されている。怨恨(えんこん)とか、野望とか、義憤に駆られたとか。本当のところはわからない。当の光秀にしても案外、ひとつの理由を挙げることはできないのではないか。
信長は光秀の才能を高く評価し、政権内でも高い地位を与えた。信長が光秀の働きを激賞した文書も残っている。信長が大軍を率いた光秀の動きを警戒していないことから考えても、ふたりの間に不和はなかった。確かなのは、ふたりが急成長する組織のトップと、その右腕的関係にあったということだ。常に尋常ならざる過大な成果を求める上司と、その成果を出し続ける有能な部下。そういう上司と部下の間には複雑な感情が渦巻くものだ。尊敬し愛情さえ感じる相手に、同時に恨みや反感を抱いていることも珍しくはない。
まして彼らは何千何万の敵を殺戮(さつりく)したことを誇り、首を狩るのが手柄であった時代に生きていた。彼らの心中を現代人の理性で推し量(はか)るのは間違いだ。信長の急激な勢力拡大によって生じた広大な軍事的空白地帯の中心である都に裸同然の信長がいて、そこに自らの一万の兵力が居合わせるという偶然に巡り合わせた時、光秀の心は大きく揺れたのだ。そして彼はそれを奇貨(きか)とした。これは千載一遇の自分の運である、と。
主君に反逆する以上、失敗は許されない。まして相手は、日本全土の事実上の絶対君主にあと一歩というところまで上り詰めた信長だ。万が一にも討ち漏らすことがあれば、残虐な死が光秀とこの反乱に加担した家臣一族、女子どもにいたるすべての人に降りかかる。その場において光秀の正義は信長の首を挙げることにのみかかっていて、それは本能寺に討ち入ったすべての兵士にとっても同じだった。
信長も警護の小姓や中間(ちゅうげん)たちも、それは完全に理解していたはずだ。そしてそれが一万人対数十名の戦いである以上、自分たちに残されたのは、戦って死ぬという道だけだった。『信長公記』の最終巻、巻十五には信長の首ひとつを目掛けて殺到する光秀の兵と、これを防ぐ小姓や中間たちの絶望的な戦いが記されている。とは言え、書かれているのは斃(たお)された信長方の長い人名の列だけだ。戦記には敵味方に関わらず戦場で討たれた人の名が記されるものだが、そこには信長方の人名しかない。完全武装の一万の兵と先刻まで寝床にいた数十名の戦いだ。戦いというより、実質的には一方的な殺戮だったのだ。
信長は弓をふたつ、3つと替えながら防戦したとある。信長の周囲では、小姓たちが次々に斃(たお)されていたのだろう。信長は御殿の縁先で、弦が切れるまで弓を射る。弓の替えがなくなると槍を持った。やがて敵の槍を肘に受け戦えなくなると、後ろに下がり、そこで初めて、側に控えていた女房衆に声をかける。
「女はくるしからず、急ぎ罷(まか)り出よ」
音声で聞く! 5分で学べる歴史朗読
Takuji Ishikawa
文筆家。1961年茨城県生まれ。著書に『奇跡のリンゴ』(幻冬舎文庫)、『あいあい傘』(SDP)など著書多数。