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2024.11.02
息子の「声」を聴きたくて、母は補聴器を買ったけれど──
ろうの両親の元に生まれ「コーダ(聴こえる子ども)」として育った、作家でありエッセイストである五十嵐大さん。小さな港町で家族に愛され健やかに育つも、やがて自分が世間からは「障害者の子」と見られていることに気づき──。誰も知らない場所でふつうに生きたいと、逃げるように向かった東京で五十嵐さんが知った本当の幸せとは? 『ぼくが生きてる、ふたつの世界』から一部を抜粋して紹介します。 ※画像はイメージです
中学生になった。小学生時代、クラスメイトや近所に住む大人からの障害者差別を目の当たりにし、すっかり人間不信になっていた。障害者という“社会的マイノリティ”はどこへ行ったって虐げられてしまう。それを避けたいのならば、目立たずに暮らすしかない。家族であるぼくも同じ。親の障害を完全に隠し、“ふつう”であることを装って生きていくのが賢い選択なのだ。
そう思えば思うほど、母との間に距離ができていくのも感じていた。この頃は、もはや手話を使うこともなく、母とのコミュニケーションはもっぱら口話だった。とはいえ、理解してもらえるように、ゆっくり・はっきりと話す努力もしなかった。それで通じないのも無理はないのに、言わんとしていることをうまく理解できない母を見て、苛立(いらだ)ちを募らせていった。
──ごめん。もっとゆっくり話してくれる?
そんな母の訴えを、あっさり無視した。どうしてぼくが譲歩しなければならないのだ。悪いのは、あんただろ。そんな残酷な気持ちを抱いていた。
そうやって開いてしまった距離を、母は母なりに埋めようとしていたのかもしれない。
ある日、部活を終えて帰宅すると、母がうれしそうにぼくを出迎えてくれた。なんだか機嫌がいい。
──なにかあったの?
おずおずと切り出すと、母が髪の毛をかきあげて左耳を見せてくる。一体なんだ?
よく見ると、そこには薄いベージュの小さな機械のようなものが装着されていた。耳にかけられた部分から透明なチューブが伸びており、その先が耳の穴に続いている。
──これ、なに……?
──補聴器だよ。
──補聴器って?
補聴器とは聴覚に障害のある人が装着する、音を聴き取りやすくするための器具だ。それにより、多少なりとも聴こえるようになるらしい。
──なにか喋ってみて。
音が聴こえるようになったことがよほどうれしいのだろう。上機嫌な母に気圧されてしまう。早く早く、と急せかされるまま、ぼくは呟いた。
「……お母さん」
どうやら聴こえたみたいで、母はまるで小さな子どものようにはしゃいでいる。もう一回、と何度もせがんでくる。母のリクエストに応(こた)えるよう、「お母さん」という単語を繰り返した。
母の反応を見ていると、次第に、「これで聴こえるようになるのか!」という感動が芽を出す。けれど、その芽はすぐに潰(つい)えた。
──なんて言ってるの?
補聴器のおかげで音が聴こえるようにはなったものの、その単語を正確に聴き取ることはできないようだ。なにか物音はするけれど、意味まではわからない。そんなところなのだろう。
自分でも驚くほど、その事実に打ちのめされてしまった。幼い頃から母の耳が聴こえないことは当たり前のことで、それが治ることはないと理解していたにも拘(かか)わらず、補聴器の存在により僅(わず)かな希望を持ってしまった。そして、それがすぐさま砕かれた。こんなに苦しいことがあるだろうか。
けれど、母はそうではない。初めて耳にする音が珍しいらしく、とても楽しそうにしている。テレビの音が聴こえると「ちょっとうるさいね」と得意げにし、祖父母の会話を聴いては「なんの話?」と首を突っ込もうとする。この瞬間、母は赤ん坊と一緒で、この世に溢れているさまざまな音に感動を覚えていたのだろう。
──それ、いくらしたの?
尋ねてみるとびっくりするような金額を告げられた。二十万。うちはそれほど裕福ではない。障害者枠で雇用されていた父の給料は健常者のそれよりも遥かに低く、家計に余裕なんてない。それなのに、どうして補聴器なんて購入したのか。装着したって、本当の意味で“聴こえる”ようになるわけじゃないのに。
「高いね」とだけ伝えたぼくがなにを考えているのか察したのだろう。母ははしゃぐのをやめ、真剣な面持ちでぼくを真っ直ぐ見つめた。
──高くないよ。
──いや、高いじゃん。二十万って、意味ある?
なにを言ってるんだろう。馬鹿らしくなって話を切り上げようとすると、母がぼくの肩を抱いて続けた。
──高くないよ。大ちゃんの声が聴こえるんだから。
なんて言ってあげたらいいのか、わからなかった。仮にぼくの声が聴こえたとして、意味までは理解できないのに。それでも母にとっては、この補聴器がぼくと彼女とをつなぐ架け橋のようなものだったのかもしれない。
──これからは、大ちゃんがなんて言ってるか、聴き取れるようになるから。
そんなの無理だ、と思った。でも、母の笑顔を見ていると、なにも言えなくなる。ぼくはゆっくりと頷いた。それを見て、母は目を細める。
その日の夜、風呂から上がると、母が寝室で補聴器を丁寧に拭いていた。慈しむように、ゆっくりと。通りがかりに目が合うと、彼女は「おやすみ」と微笑んだ。ぼくも「おやすみ」と返す。
その手にある補聴器は、まるで宝物みたいに光っていた。
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