「一度ハマったら抜けられない」といわれる“時計沼”。その深淵(しんえん)を知る時計界の識者3人が、自らのエピソードを交えつつ腕時計の奥深さや魅力について語り合う。
腕時計と生きる幸福とは?
──昨今、高級腕時計ブームはより大きな広がりを見せている。この状況を、長年時計を取材してきたジャーナリスト3人はどのように見ているのか。
並木 僕自身はずっと前から、「時計を買え買え」と言ってきたわけでありまして。ようやっと時代が追いついてきた(笑)。
篠田 僕の周りでも、腕時計が話題になることは増えています。確実にその間口は広がっているんじゃないかな。
並木 クルマとは違って価格の幅がものすごく広いじゃないですか。低価格帯のものからも、入ってきやすいんですよ。
関口 一方で、時計ブームが少し過熱しすぎているようにも感じます。購入希望者が店舗に行っても時計の在庫がまったくない、というブランドも少なくないようです。
篠田 YouTuberの爆買いやネットニュースの煽(あおり)も影響しているので、若干いびつな方向に進んでいるようにも思いますね。
並木 時計好きのコレクターだけでなくて、いじましい投資家なんかも増えました(笑)。
篠田 キムタクが「エクスプローラーI」を着用して流行らせた時代とは、少し違ういびつさを感じています。でも、腕時計自体は以前と比べて、確実に多くの人に受け入れられている。
関口 それでいえば、アップルウォッチの功績も見逃せません。アップルウォッチのおかげで、若い人たちが腕に時計をつけるという行為に慣れた。それを経て、機械式時計にリプレイスした人も少なくないと思います。
並木 アップルウォッチはもはや、ガジェットに近い存在。だから頭に装着するバンド式やバーチャルグラス式でもよかったはずなのに、結局は腕時計型になった。これは、我々腕時計界の勝利かもしれない(笑)。
篠田 腕時計がここまで注目される前から、スイスへ時計取材に通い、さまざまな媒体で草の根活動をしてきましたからね。
並木 僕が初めてスイス取材に行った’90年代から時代は変わって、今はもう腕時計という存在が単なる「時刻を知るための道具」ではなくなっています。「時間を確認するのは、スマホがあれば十分」という物言いをすでに覆し始めているんですね。これも、腕時計界の勝利(笑)。
関口 それは諸先輩方のおかげでもあります。
並木 一方で我々は「腕時計はいったい何のために存在しているのか?」という問いに対する答えを一生懸命探ってきました。
篠田 僕が感じるのは、自分の人生や自分がたどってきた足跡を知る“思い出のレコーダー”としての役割もあるなと。高価なものですし、愛着もあるから長く所有する。すると、この時計はいつ買ったのか、どの理由で買ったのか、人生の節目の感情や記憶を思いだせるんです。買ったあとにそんな楽しみができるのは、腕時計くらい。デジタルツールや他のアイテムでは、同じようにはいかない。
関口 加えて、コミュニケーションツールとしての役割というのも、最近強く実感しています。
篠田 パネライやブライトリングなど、ブランドが公認するファンダム(熱心なファンがつくるネットワーク)もありますが、今だとSNSでファン同士がつながることも少なくない。
関口 まさにそれ。例えば、欲しい時計を購入する際に、好みの近そうな人の知恵を拝借したいじゃないですか。そういう時は、ユーザーの意見をSNSのコミュニティから募ってみたり。
並木 僕は20年ほど前から、学習院大学が主催する生涯学習センターで講義をしているんですが、ひたすら時計の話をするという奇妙な授業です。終わったら飲みにいって、そこでも時計の話(笑)。それこそ20年前は、時計が趣味なんていうと怪訝(けげん)な顔をされたものですが、今は時計を趣味にする人たちも増えているので、愛好家同士のコミュニティにコミットする人も増えているように感じます。
関口 それに、コレクションするだけが高級時計の楽しみではなくなっていますよね。特定の時計ブランドが好きな人同士でオンライン上でつながったり、オフ会するような人たちもいます。時代に合わせて、楽しみ方が多様化している。
篠田 確かに様変わりしてきましたね。
並木 コアなファンはもとより、マイルドな時計好きという層が確立し始めたのかなと。
仕事ではどのような意味づけが可能か?
──腕時計のコミュニケーションツールとしての役割は、仕事上でも有用だ。では他に、ビジネスにも有用な意味づけはあるのだろうか。
篠田 自分のキャラクターを投影できる点は、重要だと思います。僕がスイス取材に行くようになったのは、20代後半の頃。並木先生を含めて、他のジャーナリストは皆先輩なので、今以上に若手が少なかった。
並木 お互い若かったですよね。
篠田 その当時、ジャガー・ルクルトの「レベルソ」をつけていたんですが、取材先で「若いのにいい時計してるな」と声をかけてもらえて。そこから話も広がりましたし、どこか自分が認められている感覚にもなりました。腕時計はコミュニケーションツールのほかにも、自分をどう見せるか、見られるかという「名刺」の役割を担っているんだなと、身をもって実感したんです。
関口 その感覚、よくわかります。着用している腕時計の写真をSNSに投稿することがしばしばあるんですが、フォロワーの方は、「関口の私物か、それともブランドからリースされたものか」という嗅覚が鋭い。つまり、僕のキャラクターを見極めている。私物ってその人のモノ選びの感覚が表れるじゃないですか。そんなところまで見るのか、と驚きました。
並木 腕時計を通じて、パーソナリティまで観察されているんですよ。
篠田 逆手に取ると、腕時計は見せたい自分を表現する手段にもなりうるということ。自己演出が可能なアイテムなんです。
ギフトとして見る時計の普遍的価値
──「自分らしさ」まで表現できる、コミュニケーションツールとしての腕時計の懐の深さ。一方で、「大切な人へ腕時計を贈る」ことへの“ハードルの高さ”について、3人の考えは?
並木 ハードルが高いとは思いません。むしろ、腕時計ならではのメリットもあります。メンズモデルもレディスモデルも、デザインの違いはそこそこで、大きな違いはサイズくらいなもの。ジュエリーはジェンダーによるデザイン差がかなり大きいですが、その点腕時計はジェンダーレスに使うこともできる。
関口 実際に時計を贈り合っている人たちも見かけますが、それ以上に、今は女性の時計ファン自体が増えているように感じています。特に、メンズ提案されている大ぶりな腕時計を愛用する女性をよく見かけるようになりました。
並木 その逆もあって、レディスモデルではありますが、僕は今年のヴァン クリーフ&アーペルの新作「レディ アーペル ユール フローラル ウォッチ」を各所で推しています。この時計は超絶高額なので、ギフトには向きませんけど(笑)。
篠田 ギフトに関して言えば、あまり高い時計を贈ってしまうと相手に重たく感じられてしまうかもしれませんね。だからライトに楽しむならば、シェアウォッチという考え方は有効です。先ほど話にも上げた「レベルソ」は、夫婦で共用しています。
関口 最近、カルティエの「タンク」を手に入れたんですが、これもシェアに向いていますよね。
篠田 シェアウォッチは高価な時計を購入するための“大義名分”にもなるので、お薦めです(笑)。
並木 女性にも腕時計の魅力が広がっていくというのは、なんだか感慨深い。特に僕はどん底の、腕時計不遇の時代も見てきているので、余計に嬉しいです。
大義名分こそが購入の背中を押す
──大義名分という意味では、「自分へのご褒美」として高級時計を買うこともまた、その選択肢に挙がるのだろうか。
篠田 仕事のモチベーションも上がるでしょうし、とてもいいと思います。
並木 僕は初めて大学で教授職が決まった時に、永久カレンダーの時計を買いました。衝動買いだったんですが、その時、自分への言い訳の安全装置を外せた気がしました。
篠田 僕は40歳を超えてから「スーツをカッコよく着こなす大人になりたい!」と、スーツより先にドレスウォッチを購入しました。時計を入り口にして、なりたい自分像に近づいていきたいなと。
関口 あとは、先に篠田さんが触れられたように、人生のレコーダー的感覚で節目買いすることもありますよね。ただ、狙っていたものと実際購入したものは、結構異なっていることが多いんですが。きちんと意味づけして買ったもののほうが、よく使うような気がします。
篠田 過去だけじゃなくて未来も創造できるのが、腕時計なんですよね。次の仕事に気合いを入れようとしたり、時間に向き合おうとしたり、その時に志した思いを時計に託す。もしワークアウトに目覚めたら、デジタルでいろいろ管理できるアップルウォッチを買うかもしれない(笑)。
縦の受け継ぎから横の受け継ぎへ
──次世代に受け継ぐということも、腕時計購入の大義名分になるのだろうか。
並木 基本的に、機械式時計は動き続けるものです。先述した学習院の面々とよく話すネタですが、「大きなのっぽの古時計」が動かなくなっちゃうのは、嘘ですから。きちんとメンテナンスすれば動きます(笑)。これだけ永続性のあるプロダクトって、なかなかない。受け継いでいく価値は絶対にありますよ。
篠田 僕は子供がいないので、時計のコレクションを今後どうしようかな、とよく考えます。どうせ手放すなら、時計の価値がわかる知人に譲るというのは、ひとつの答えかもしれません。実際、コミュニティ内での時計の受け渡しって増えている気がしませんか?
関口 そうですね。時計コミュニティのオフ会に顔を出すことがありますが、友達価格で譲っている光景をよく目にしますよ。今後は、こういった“横の受け継ぎ”が主流になるのではないでしょうか。譲った友人に会えば、かつて所有していた時計にも再会できるというメリットも大きいようです。
並木 僕はミネルバの時計とストップウォッチをコレクションしているのですが、それはどうしようかな。まだ考えていないけれど……。そもそも欲しがる人はいるのだろうか。
篠田 我が子が必ずしも時計好きになるとは限らないですよね。
関口 僕も子供が育つまでまだまだ時間がありますから、横の受け継ぎのほうが今はリアリティがあります。
篠田 お子さんがいるなら、時計を引き継ぐことは購入の大義名分としては有効です。
関口 生まれ年の時計もいいですよ。愛着が湧きます。
並木 「腕時計を持つ幸福とは?」という問いに戻りますが、人によってその答えが異なるのが面白いんですよね。
篠田 今話していても、三者三様ですしね。
並木 タグ・ホイヤーの「マリオカート」モデルやブライトリングの「紅の豚」モデルのようなコラボウォッチを集めることに、自分のアイデンティティを託してもいいし、グランドセイコーの「白樺」や「雲海」といった美しい表現を愛(め)でてもいい。
篠田 要は、面白がり方ですよね。入り口は多いほうがいいし、フックはたくさんある。
関口 それゆえ、いつも予算オーバーしてしまいますが。時計好きの一番大きな悩みでしょうね(笑)。
3人が選んだ“印象深い時計”コレクション
Namiki’s Watch Collection
Sekiguchi’s Watch Collection
Shinoda’s Watch Collection
篠田哲生
1975年千葉県生まれ。時計ジャーナリスト。男性ライフスタイル誌編集部を経て独立。編集者時代には、時計記事作成のために時計学校で修学した実践派。時計誌のみならずライフスタイル誌全般に幅広く執筆。近著に『教養としての腕時計選び』(光文社新書)がある。
並木浩一
1961年神奈川県生まれ。時計ジャーナリスト、桐蔭横浜大学教授。出版社勤務の後、京都造形芸術大学大学院にて博士号を取り現職。スイス取材には、日本メディアが参加し始めた’90年代から参戦。独自の切り口での時計論評に定評あり。著書に『腕時計一生もの』(光文社新書)など。
関口優
1984年埼玉県生まれ。「HODINKEE JAPAN」編集長。全国版の時計誌編集長を務めた後、世界的な人気を誇る海外時計メディアの日本版の立ち上げを機に、現職に就く。深い見識を活かし、インスタライブや時計店のイベントなどでも活躍。国内外のコレクターとも深い親交がある。