コラム形式やインタビュー形式など、形を変えながらYUさんの脳内を巡るあれこれをお届けしてきた連載「大川放送局」。最終回は「贅沢」について、コラム形式で締めくくる。連載「大川放送局」とは
皆さんは贅沢というものをしていますか? 贅沢というのは響きがいいものですよね。できれば毎日贅沢三昧の日々を送りたいけれど、なかなかそういうわけにはいかない。
贅沢というものは僕たち人類を堕落させるような、危険な響きを含んでいるので、それもそれでなんだかいいですよね。 ちょっと危険な香りのする男性に惹かれてしまう、好奇心旺盛なティーンエイジャーの女性の感覚に似たようなものがあるのかもしれない。
ただ一方で贅沢なき人生というのは、衣のない豚カツのようなものではないだろうかと僕は思う。 (どれもよくわからない例えになってしまった。まあいいか)
ところで、贅沢とはいったいなんだろう? 露天風呂つきの高級旅館に連泊しながらNetflixでドラマを鑑賞することなのだろうか。予約困難のカウンター鮨屋に自宅へ来てもらいプライベートな空間で握ってもらうことなのだろうか。それとも、北欧の老舗ワイナリーを巡る寝台列車の中でプレミアムなヴィンテージワインを飲むことなのだろうか。どれもそれなりに贅沢そうな響きを含んでいるが、どうも腑に落ちない。
気になったので調べてみたところ、辞書では
①必要な程度をこえて、物事に金銭や物などを使うこと。金銭や物などを惜しまないこと。
② 限度や、ふさわしい程度をこえること。
と書かれている。
ただ、なんだか僕には説明不足のようにも感じる。本当に贅沢とはそれだけなのだろうか。
納得できず眠られそうにもないので、僕は僕で僕なりに贅沢について考えなければいけない羽目になった。ソファでゴロゴロしながら考えてみたところ、 辞書にない贅沢というものは、違う角度の視点からみると、面倒だったり、無駄だなぁなんて思うところに潜んでいることが多いかもしれないという、ひとつの法則性のようなものが浮き出てきた。
例えば、コーヒー。豆から選び、豆をひき、温度や時間を気にしながらゆっくりと淹れる。そんな行為は、コーヒーに興味がない人からすると、ただただ、面倒くさい以外のなにものでもない。ただ、もしあなたがコーヒー好きであれば、そのように手間暇をかけた一杯は紛れもなく贅沢な一杯となる。
こと音楽について考えてみても同じようなことが言える。 スマートフォンのアプリを開けば、ボタンひとつで音楽が聴けるのは大変便利であるし、それだけで十分に楽しめる。一方でLPジャケットからレコードを取り出し、ターンテーブルに置いて、針を落とす。そんな作業をしてからじっくり聴く一曲は、それもまた間違いなく贅沢な音楽の楽しみ方であるわけです。
無論、チケットを購入し、ライブ会場まで足を運び、列に並んで、ビールを買って飲みながら聴く生ライヴなんてものはそれこそ純粋なる贅沢な音楽の楽しみ方以外のなにものでもない。 もちろん、そこには金銭的なコストをかけたことにより、より高い品質やクオリティを享受できたから贅沢なのだという辞書的な意味合いに繋がるかもしれないが、僕としては肝心なのは手間暇をかけるという工程の時間と労力の投資にこそ、つまり過程に贅沢性というものが宿るのではないだろうか、なんて思うわけです。つまり合理性とは、まるで逆の場所に。
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ところで話は変わりますが、人は死後、肉体から離れ魂の状態になると、今僕たちが存在している物質的3次元の世界から、5次元の世界に移行する、という説がある。そこでは、ガチガチに物理法則が適応されるこの世界とは違い、もっと高次元ですから、願ったことが次の瞬間、ボンと目の前に具現化させることができるというのだ。
例えば、すき焼きを食べたいと願えば、次の瞬間目の前にすき焼きがボンと現れる、といったように。 車が欲しい。ボン。時計が欲しい。ボン。彼女が欲しい。ボン。……みたいな。嘘か本当かは確かめようがないので真実はわからないが、まあそれが俗にいう天国という場所であり、大昔から似たような逸話が沢山あるということは、あながち作り話ではないのかもしれない。死後って結構楽しそうだなあ、なんて思う一方で、なんだかしばらくしたら飽きそうだなあという気もする。そしてまた、そんな風に思うのは僕だけではないようだ。
とある一説によると、今僕たちが存在しているこの面倒くさい物質世界は、別の次元からもエンタメ的に人気が高く、皆が皆来られるわけではないという話がある。(人数制限でもあるんですかね) 要は3次元の物質世界は物理の法則が適用されるので、願いが叶うまでの時間と手間暇がかかるというわけだ。
なので、いつも目的地までどこでもドアで行けてしまうような天国に飽きた人達が、「たまには電車に揺られてゆっくり景色を眺め楽しもうじゃないか」とでもいった感じだろうか。
思えば僕らは、自分の希望や願いがなかなか叶わず、思い通りにいかないことにより、苛立ったり嘆いたり、落ち込んだりを繰り返す日々を送っている。ただ願ったことが一瞬で、ボンと叶ってしまう。すべてそれだと、それはそれで味気がない気もする。(たまにはそういうのも楽しみたいですが)
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話を「贅沢」に戻そう。そんなことをぼんやりと考えていると、僕らが生きている間に起こること、それが例え一見ネガティブに見えてしまうものだろうと、もっと大きな視点からみると、贅沢な悩みということになるかもしれない。
いやそもそも、「悩む」という行為すら贅沢なのかもしれない。 もしかしたら、僕らはある意味もう気がつかないうちに、毎日贅沢三昧をしているということなのかもしれない。しかし、そう心から思えるほど僕の精神レベルは卓越していない。ここらでチビチビとハイボールを飲みながら、夜食にペヤングを食べ、映画を観るという贅沢をしようと思う。
色々考えてきたけれど、最終的には自分が贅沢だと思えばそれは誰がなんと言おうと、贅沢なのだ。 皆さんも皆さんなりの贅沢を見つけて、たまには自分を贅沢で甘やかしてみてください。もしかするとそんな贅沢を味わうことこそ、この世界の醍醐味なのかもしれないのだから。次いつ、この世界に来られるかわかりませんので。その分。
PS:ゲーテさんでの連載「大川放送局」は当初1年の予定でしたが、なんだかんだ1年半ほどやらせていただきまして、今回で最終回となります。ご高覧ありがとうございました。また、どこかでひょっこり顔を出すかもしれませんので、その時は、あ! と思っていいだけましたら幸いです。
■連載「大川放送局」とは
80'sサウンドをルーツに持ちながら、邦楽と洋楽の垣根を超えていく4人組ロックバンドI Don't Like Mondays.のボーカルYUの連載「大川放送局」。ステージ上では大人の色気を漂わせ、音楽で人の心を掴んでいく姿を見せる一方で、ひとたびステージを降りた彼の頭の中はまるで壮大な宇宙のようだ。そんな彼の脳内を巡るあれこれを、ラジオのようにゆるりとお届け。