美しいメロディの上に美しい声で歌われる不思議な言葉の羅列。ほかの誰にも真似できない“陽水ワールド”だ。“ものぐさ”と“社交的”、相反する面をしなやかに行き来する井上陽水の音楽術に迫った伝説の企画を振り返る。第1回。※GOETHE2006年9月号掲載記事を再編。掲載されている情報等は雑誌発売当時の内容。【特集 レジェンドたちの仕事術】
日本一の「ステキ」の使い手
「皆さん、とてもステキな職業を選ばれましたねぇー。ご両親もさぞかしお喜びになっているんじゃないですか? 恋愛にも、有利に働くお仕事ですよね、きっと」
撮影で訪れた中目黒の生花店。
「ステキな職業」と言われ、ユリやバラを束ねる女性たちが、かすかに頬を赤くさせる。この「ステキ」という言葉の使い手として、井上陽水という人は日本一だろう。あの声のトーンとたたずまいで「ステキ」と言われたら、女性の心に響かぬわけがない。
僕の声が君にとどいたらステキなのに
能古島の片想い
ステキな君の笑顔へ戻る
愛の装備
町の角からステキなバスが出る
リバーサイド ホテル
陽水がカタカナで歌う「ステキ」を聴き、男性リスナーの多くが、女性に対して男の口から「ステキだ」と素直に伝えていいと知った。
「それで、実践されましたか?」
えっ? 不意だった。陽水に逆に質問される。
「女性に、ステキ、と言ってみたわけですね」
えぇ……、まぁ……、「ステキ」から、多少の恩恵はいただきました。うろたえつつ答える。
「それは、とてもよかった」
サングラスの向こうの目が笑っているのがわかる。
この人がいる場所には、この人だけの空気があり、時間の流れがある。その領域で発せられる言葉には、男ですらうっとりさせられる。
例えば1984年のヒット曲「いっそ セレナーデ」は、あまいくぅちぃーづけぇー、という言葉が甘美なメロディとともに発せられた。イントロなしの詞は、熱を帯び、かすかに濡れた。ありふれた言葉が特別な言葉に姿を変えた。
「若い時のヒットが、常識はずれの詞も許される環境を与えてくれた」
「ステキ」や「あまい口づけ」だけではない。井上陽水にだから魅力を増すタイトルや詞は、ほかのどんなアーティストよりも多い。
新譜『LOVE COMPLEX』では「長い猫」「あなたにお金」という曲が歌われる。
あなたにお金、金をあげたら帰ろう
活字にすると、冗談とも思えるような詞。しかし陽水によって歌われると、とてつもなく美しいラヴバラードになる。確信犯的な作品だ。
いったいどうして、そんなタイトルや詞が生まれるのだろう?
「………………」
陽水はしばし沈黙した。サングラスの中の目線はやや遠くを見ているようだ。尋ねてはいけない質問だったのか……聞く側が不安を感じ始めるには充分な間の後、ゆっくりと口を開いた。
「何と答えたらいいのかな……。まあ、僕の場合、さしさわりのないように周囲に埋もれていくことも好きなんですけれどね。でも、同時に、変わったことが好きというのはあります。タイトルも、詞も、変わった方向で頑張っているところはあるかもしれない。常識はずれとでもいうか」
話しながら、ふと、カウンターに置かれた『ゲーテ』の8月号に手を触れる。
「例えばこの『ゲーテ』ですけれど、僕はどういういきさつでタイトルがついたのかは知りませんが、これを見て、えー、信じられない! という感じはないですよね。まあ、ある意味ではそう思わなくもないですけれど(笑)。でも、それなりにあるかもねぇー、というふうじゃないですか。
ところが、これが月刊『金魚鉢』だったら、社長が編集長に、お前、大丈夫か!? ていうことになる。遊びじゃないんだから、お金もかかっているんだから、『金魚鉢』で本当にいいのか!? とね。そして、営業的な数字が予測できるタイトルになるわけでしょう。
でも僕の場合、若い時に爆発的なヒットがあって、『金魚鉢』も許される環境が与えられた。与えられていると錯覚しているだけかもしれませんけれど(笑)。まあ、そのあたりの特殊な状況で、“嘘でしょ!?”ということも、ときどき許されている。そして、僕もそこに寄りかかっているというか、自分の特徴を大切にしている。
今の世の中は厳しくて、冗談やばかばかしいことがなかなか許されない環境でみんなが暮らしていますよね。僕も例外ではないわけですけれど、詞に関しては、“嘘でしょ!?”という感じを、少しね」
1973年、『氷の世界』が“爆発的ヒット”。日本のアルバム初のミリオンセラーを記録し、よりオリジナルな世界を陽水は展開していった。
娘には父親が5人も居たが 父親の会社には守衛も居ない 情熱と生産は反比例をし 社長には8人も愛人が居た
娘がねじれる時
流れないのが海なら それを消すのが波です こわれたような空から こぼれ落ちたとこが上海
なぜか上海
ほかの誰にも真似のできない世界を、真似のできない言い回しを、井上陽水はしなやかに歌う。
「PUFFYの楽曲を一緒につくる話を奥田民生という友人からもらったときもね。〈北京 ベルリン ダブリン リベリア〉という詞ですけれど、ちょっと遊んだというか、冗談をやらせていただいた。
ふつうであれば、僕があの詞を提出したときに、何を考えているんだ! なんていうお叱りがあってもおかしくはないんですけれどね。でも、うーん、これで行ってみようかぁー、という判断をいただいた。
タイトルは『熊猫深山』にしたら、それはさすがに、何とかならないか、ということで、『アジアの純真』になりましたけれど」
次回へ続く。