2023年9月30日、これまでテレビや雑誌などで多く取り上げられた、新宿二丁目のアイコニック的存在である深夜食堂「クイン」が閉店した。オープンから53年間、名物ママを続けてきたりっちゃんに、独占取材。4回にわたってクインの歴史を紹介する。【第2回】 ※1回目はこちら。
ゴールデン街のはずれにあったアパート
昭和、平成、令和と、時代とともに変わりゆく新宿二丁目を見守ってきた深夜食堂「クイン」のりっちゃん。バブル期で賑わう二丁目も、コロナ禍で閑散とする二丁目も、常に変わらぬ営業スタイルで訪れるお客に美味しい料理を提供してきた。
そんなりっちゃんが新宿に住みはじめたのは1963年、18歳で上京してすぐのこと。姉が営んでいた神田の喫茶店で働くことが決まると、現在の新宿・歌舞伎町にあるアパートを借りて暮らしだした。
「福岡から上京してきた時、姉に『一緒に住むのは嫌だ』って言ったら、『うちの計理士(現在の公認会計士)が持ってるアパートがあるから、そこに住むか?』って。それでひと部屋を借りて暮らしはじめたの。今でいう『四季の路』あたり。近くに都電が車庫に入る引き込み線があってね。今もそのアパートは残ってるよ」
その頃、りっちゃんがハマっていたのが、新宿二丁目にあった屋台のおでん。簡易旅館の駐車場に屋台を引いて売っていた、じっくり煮込んだおでんを夜な夜な食べに行ったそう。しかし、当時の二丁目は今の賑やかな雰囲気とは大きく異なっていたという。
かつては遊郭が多く軒を連ねていた新宿二丁目は、昭和33年に売春禁止法が施行されて以降、「青線」と呼ばれる地域が軒並み廃業に追い込まれ、人気のない静かな街になっていた。
「当時の二丁目は、真っ暗なゴーストタウンだよ。街灯だって有料だったからさ、電気代を払う人がいなくて。だから、若い女の子は、夜に靖国通りから新宿通りまで抜けられなかったの。ひとりで歩いてると『こら! どこを歩いてるんだ!』って怒られ、ヤクザのポン引きには『お姉ちゃん、いいアルバイトがあるよ』って誘われて。
その頃に、パチンコ屋にいた若いゲイのお兄ちゃんが、近くに座ってるおばちゃんたちに、『俺らが働いて稼ぐから、店の家賃だけ払ってよ』って話を持ちかけてたの。若い子たちは、お客は持ってるけど、お店をはじめる金がない。なら出資しようって人と組めばいいって。人間ってしぶとい生き物だからね。私はやらなかったけど。それでゲイバーができた。それが新宿二丁目の出発点よ」
そんなこともあり、新宿二丁目には次第にゲイバーが増加。某メディアで「女が入れない男だけの秘密の場所」と紹介されたことで、新宿二丁目がゲイタウンとして注目されはじめたのも、りっちゃんが上京してきた1963年頃だったと語る。
新宿二丁目・深夜食堂「クイン」の誕生秘話
時代は移って、昭和45年。新宿二丁目は少しずつかつての活気を取り戻しはじめていた。そんな時、りっちゃんは、喫茶店「クイン」をオープンする。しかし、それは現在のビルではなく、仲通りを抜けた角にある小さな建物での開業だった。
「靖国通りにあった八千代銀行(現・きらぼし銀行)の横断歩道に、小さな2階建ての木造モルタルの “仕舞屋”があったんだよ。そこの持ち主だった芸能プロダクションの社長に、オレが金を貸してて。そしたら社長が返せなくなっちゃって、仕舞屋の1階を担保としてもらったんだよ。でも、持ってても仕方がないから、喫茶店を出したの。喫茶店の仕事はお手の物だったからね」
そして夫婦ではじめた喫茶店「クイン」。サラリーマンが多い新宿で、静かにコーヒーが飲める喫茶店とあってお店は大盛況。旦那さんが料理を作り、りっちゃんがテーブルまで運ぶ、そんな今のスタイルがいつしか定着した。
しかし、時代はバブルの真っ只中。クインがあった建物が売りに出されることになり、夫婦は移店を余儀なくされる。行く当てもなく、次の物件を探した夫婦は、やがて新宿二丁目のビルの2階を見つける。それが現在のクインだ。
小さなシャンソンバーだったその場所は、二丁目の仲通り交差点のすぐそば。大きな窓から二丁目の大通りを見渡せる店内は、キッチンもあるので食堂をするのに最適だった。そこで、定食屋の開業を嫌がる家主を押し切り、夫婦は“深夜食堂”として再び「クイン」をオープン。
はじめは「仕方がない」という思いで、二丁目の中心地に移店したというりっちゃんだが、今では二丁目で飲み歩いている人なら、その名を知らぬ人がいない“登竜門”のような存在になっているのだとか。
「生きていくってことは、大変なのよ」と、かつてを思い出しながら感慨深げに語るりっちゃん。そんなまさに“激動の時代”を生き抜いてきたりっちゃんは、今も変わり続ける新宿二丁目を静かに見守っている。