PERSON

2022.02.13

冒険家・植村直己の人生をかけた最大の挑戦。「何か新しいことをやることが冒険であると思います」

冒険家・植村直己。五大陸最高峰制覇、北極圏1万2000㎞単独犬ゾリ行、北極圏グリーンランド単独犬ゾリ行など叙情詩的な冒険の数々は世界中から賞賛された。エベレスト初登頂者のヒラリー卿でさえも「植村は最大のアドベンチャラーだ」と称えた。だが、世界からいくた賞賛されようとも、彼の挑戦は止まることなく、視線の遥か先は一点を見据えていた。南極大陸単独犬ゾリ横断。これこそが、植村の人生をかけた最大の挑戦だった。【2006年4月号の掲載記事を再編】

写真:文藝春秋

単独登山も自分のマイペースを守っていれば、必ず成功する

冒険家。その言葉のイメージは人並みはずれた強靭な肉体、精神を有する超人ではないだろうか。だが、数々の偉業を成し遂げた日本を代表する冒険家・植村直己は身長162cmのずんぐりとした体型。そして、映像や写真からも見て取れる愛らしい笑顔は冒険家のイメージのそれとは遠くかけ離れている。

事実、植村を初めて見た人は「こんな小柄な人が、あの植村直己?」と驚いたという。しかし、少しでも植村に接すると、穏やかな人柄や優しい笑顔にぐいぐい惹かれていく。そして、思うのだ「こんな人だからこそ、偉業を成し遂げることができるのだ」と。

植村は笑顔の奥底に強靭な精神を持ち合わせていた。それらを武器に自らの冒険を現実のものにしていく。植村直己の人生で最大の挑戦。それは南極大陸単独犬ゾリ横断だった。だが、夢半ばに植村は'84年、厳冬期のアラスカ・マッキンリー(現・デナリ)に消える。

後日、捜索隊が雪洞で発見した日記には、想像を絶する極限状態に身を置きながらも、ひたむきに前へと進む気持ちが淡々と書き綴られていた。

「俺は絶対死んではならないのだ」と自分でいいきかせ、いなおる

「友だちを得ることもできるだろう」

山に関する知識も持たず、軽い気持ちで明治大学山岳部に入部した植村直己を待っていたものは、上級生と山の厳しさだった。「殺されるんではないだろうか」そう思って何度か退部を考えるが、しだいに山の虜になっていく。3年生になる頃には年間130日も山に入るようになっていた。

大学卒業後、外国の山に登りたい一心でアメリカへ渡る。果実農場での不法労働であわや強制送還されそうになるが、登山のための資金稼ぎだったと告白すると移民調査官はこう言った。

「日本には帰らなくていい。今すぐヨーロッパへ行き、山に登りなさい」

強制送還を免れた植村はフランスに渡る。その後、ゴジュンバ・カン、モンブラン、マッターホルン、キリマンジャロ、アコンカグアなどの山やアマゾン河イカダ下りを実現し、4年5ヵ月の放浪生活に終止符を打つ。帰国した1969年、まるで植村の帰国を待っていたかのように、ネパール政府が外国人登山の禁止を解いた。

植村は日本山岳会から偵察隊に選ばれ、'70年に日本人初のエベレスト登頂者となる。続いてアラスカ・マッキンリーにも登頂する。この瞬間、植村直己は世界初の五大陸最高峰制覇者となった。

南極大陸

北米大陸の最高峰マッキンリー(6194m)。美しい姿とは裏腹に、厳冬期の気温は-70°に達するといわれる魔の山。写真提供=植村冒険館

何が何でもマッキンリー登るぞ

その後の植村は北極圏へと舞台を移す。1976年北極圏1万2000㎞単独犬ゾリ行成功。しかし計画が大きくなっていくに従って費用も膨れあがる。植村は悩みながらもスポンサーを付け、なんとか金を捻出する。

'78年、北極点グリーンランド単独犬ゾリ行成功。この偉業も、植村にとっては南極への準備でしかなかった。

'82年、ついに南極の地を踏む。この冒険が終われば「北海道に冒険学校を作ろう」そんな夢を妻に話していたという。だが、フォークランド紛争勃発。アルゼンチン軍が食料輸送などで協力してくれるはずになっていたが、協力は望むべくもなかった。

失意のうちに帰国した植村だったが、すぐにもうひとつの夢、冒険学校を作るためにアメリカ・ミネソタ野外学校に「先生になりたい」と手紙を書く。驚いたのは学校の方だった。まさか世界的冒険家を生徒にするわけにはいかない。まもなくして「指導員として来てほしい」と返事が来た。植村は若い学生たちと共に極寒の野外学校で雪洞を掘って寝たり、丸太小屋を作ったりして過ごした。植村は雪と戯れ、南極の失意を癒していたのだろうか。いや、彼はまた次の挑戦を見据えていたのだ。

アラスカ・マッキンリー冬季単独登頂。植村は日本出国の際、“使うはずのないピッケル”を荷物に忍び込ませている。野外学校も寒さに慣れるトレーニングの意味もあったようだ。

登山荷物

最低限の荷物を携えて登った植村は、テントを持たず雪洞を掘りそこで寒さをしのいだ。写真はマッキンリー山中で発見・回収された装備。写真提供=植村冒険館

マッキンリーに入山する前、植村は言った。「(冒険を)やっているのは本人なんだけど、やらせてくれるのは周囲の人。だから、絶対に生きて帰らなきゃいけない」日記には過酷な状況が淡々と描写されていた。-40°以下の世界で雪洞を掘り、震えながら日記を綴る文字の間から、夢に挑む植村の姿が見える。

'84年2月12日にマッキンリー登頂成功。その日は植村直己43歳の誕生日だった。

日記の最後には「何が何でもマッキンリーに登るぞ」と一際大きく書かれていた。そしてまだ日記を綴るため、その後には白いページが残されていた。世界に挑みい続けた植村はまだ、下山していない。

写真:文藝春秋

Naomi Uemura
1941年2月12日兵庫生まれ。明治大学農学部卒業。4年5ヵ月の放浪生活で多くの登攀を記録。1970年、エベレスト日本人初登頂。同年マッキンリーに単独登頂し、世界初の五大陸最高峰登頂者に。'74年野崎公子と結婚。'76年北極圏1万2000㎞単独犬ゾリ行、'78年北極点グリーンランド単独犬ゾリ行成功。'84年2月12日にマッキンリー冬季単独登頂に成功、その後消息を絶つ。同年、国民栄誉賞を受賞。

東京都板橋区植村冒険館についてはこちら

TEXT=井上英樹

COOPERATION=植村直己冒険館/植村冒険館

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