2019年末に17代目日産自動車CEOに就任した内田 誠は、37歳にして転職を果たし、今や約13万人からなる“チーム日産”を率いる。業績不振に苦しむなかで経営のバトンを受け取り、赤字からついに3年ぶりとなる連結損益600億円という黒字化の見通しだ。Z旗を掲げ、業績を急回復させた男の経営哲学とはーー。独占インタビュー前編。
黒字化予想に活気づく、みなとみらいの日産本社
8月27日朝9時。横浜みなとみらいの日産自動車グローバル本社。行き交う社員の足取りは軽く、その表情は明るい。この日、メイン展示が歴代フェアレディZに替わった1階のギャラリーを、同社内田 誠CEOが視察に訪れた。
日産自動車(以下日産)は2017年以降、完成検査問題や経営者の不正により社会的信用やブランドを毀損。前会長による負の遺産は大きく、混迷と業績不振のなか、’19年12月に内外の候補100人から抜擢されたのが内田 誠CEOである。まさにどん底からのスタート。’20年3月期の決算は19年度に続き、20年度も最終損益は6712億円の大幅な赤字を計上。しかし、内田新体制のもと行われている事業構造改革により7月28日、ついに21年度の連結最終損益が600億円の黒字となる業績予想を発表するにいたった。3期連続赤字を回避し黒字化も視野に入り、みなとみらいの本社は活気づいているように見えた。
プロジェクターで投影されているイカズチイエローの新型Zを見やりつつ、内田が真っ先に歩み寄ったのは、1989年に生産されたZ32型フェアレディZだ。
「社会人になりたての時に初めて買ったクルマがこのZ32。ガンメタリックカラーのマニュアルトランスミッション仕様。シートは革張り。実はもう一度乗りたくて今、探しています」
ニンマリ顔で語った内田は大のクルマ好き。その原点は、漫画『サーキットの狼』。小学生時代に父親の仕事の関係で過ごしたエジプト・カイロの友人宅で、夢中で読みふけったという。
「沖田という警察官がフェアレディ240ZGのパトカーに乗り……今でもよく覚えています」
カイロ生活を終え、いったん日本に戻るも、今度は中学2年からマレーシアで暮らすことに。インターナショナル・スクールに通いながら現地でアルバイトをして貯めたお金で中古のモトクロスバイクを手に入れた。日本よりも一年早く2輪免許を取得できる、15歳の時だ。
「とても感化されやすいんです。映画『愛と青春の旅立ち』を見て、もうこれはバイクしかないな、と。モトクロスでキメるウイリーやアクセルターンに憧れたし、その頃ギターも始めて、モテるためにカッコつけてました。当時はいつも辞書を持ち歩いていて、『What’s the meaning?』が口グセ(笑)。クラスメイトと打ち解けるためにアメフトを始めたり……。自分を表現することで信頼を得て、現地の仲間の輪のなかに入っていけた。このような少年時代を海外で過ごしたことで、強い精神力と順応力が身についた気がします」
商社マンを経て日産へ。転職直後は“必死のパッチ”
高校2年の途中で帰国。大学時代は大阪で過ごし、卒業後は総合商社の日商岩井(現・双日)に入社する。機械部門に配属された後、自動車部門へと移り、フィリピン駐在に。当時、日商岩井と三菱自動車が設立していた合弁企業に約6年勤務し、日本に帰任。そして’03年、創立70周年の日産自動車に奮起して一般公募で転職する。37歳の時だ。
「日本企業の強みと、アライアンスによる価値観を併せ持つ、日産の大きく飛躍する可能性に魅力を感じました。ちょうどルノーと日産の共同購買部門の人材募集があって。でも入社してみたら予想外の連続で。社内用語・言語も環境もまったく違う。商社では課長代理で当時、給与もそれなりにもらっていたのですが、日産では一般社員としていちからキャリアを築くことに。しかもマンションのローンがあったうえ、娘も生まれたばかり……。ここで本気で踏ん張らないと人生終わるな、と。もう、“必死のパッチ”でしたね」
自分を鼓舞するために、まず商社時代に所有していた大排気量の輸入車を手放して日産マーチを購入。勤務地は厚木テクニカルセンターだったが、職位の関係で構内の駐車場が利用できない。よって会社近くの民間駐車場を自費で借り、マーチで途中まで通勤し、そこからバスで会社に通う日々。連日遅くまで仕事に励み、研鑽を続けた。
当時の仕事は部品の購買と調達。専門用語がわかり図面が読めないと開発担当とそれ以上の大きな話ができない。ワイヤーハーネス(電力や電気信号を伝達する部品)やオルタネーター、スターターなど担当する部品は自宅に持ち帰り、バラバラに分解して構造を夢中で学んだ。
「ハングリーでした。仕事相手が持っている情報や能力を余すところなく吸収して自分の実力を上げていくことを意識し、毎日、本当に懸命にやりましたね」
“覚悟と心構え”を学ぶ。韓国と中国への出向
すべての車種の総責任者を務めた。特にルノーの韓国工場で造ったSUV、エクストレイルを北米市場へ輸出するプロジェクトでは、徹底的にコストを下げビジネス効率を高めて多大な利益をもたらした。社内では当時“アライアンスの成功事例のひとつ”と評された。
2度目は’18年、日産の専務執行役員を兼任し、東風汽車有限公司取締役総裁として中国で指揮を執った。合弁企業での経験は大きな糧になったという。
「生まれ育った環境や会社の本籍の異なる人たちとの仕事は、学びが多かった。現地プロパーの社員の視線は“お手並み拝見”。どうせ3〜5年で本国に帰るんだろ、です。でも同じ志と目標を持って合弁事業を成長させるには、相手・現地法人の立場に立って胸襟を開いて、自分は日産をクビになってやってきた!くらいの気持ちと覚悟で挑み、働かなければ真のコミュニケーションは生まれない。彼らも生活がかかっていますし、内田は私たちのために本社をどれだけ動かせるんだ?と現地関係者は見ている。でも、一度信頼を築くとそのチームは強い。一体感、絆が醸成され、会社も強くなり業績も伸びる。世界中どこでもそうだと思います。だって人と人ですから」