世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2007年8月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
いかなる祝祭を私に告げるのか。私は祝祭を好まない。夜な夜なの憩いは疲れた者を回復さすに充分だ。真の人間のまことの祝祭は行為そのものだ
――『ゲーテ格言集』より
歌人の俵万智さんが、あなたは普段どうやって短歌的感性を鍛えているのか、というマスコミからの質問に対し、「短歌を作り続けることによってのみ、それを養ってきました」と男前の応じ方をされたことを覚えている。シンプルで力強い言葉だった。
傑出した人間には必ずこれがある。王道を歩んできたという実直さだ。人生の正体は時間だと見抜いているので、時を貫く幹をまず打ち立てようとする。枝葉で繁ったふりをしない。無駄な時間を作らない。世間の方から押し流してくるなんらかの娯楽に身をひたし、それで生きたつもりにはならない。
文豪と呼ばれたゲーテは、詩人であり、哲学者であり、役人であり、旅人であり、植物や鉱物や物理の学徒であり、劇場のプロデューサーであり、なおかつ恋多き男であった。まるでオモチャ箱のようにとっちらかって見える人生だ。でもそれは、私たちが枝葉の方から彼を見ているからであって、彼自身は自分の幹に忠実に生きたに過ぎない。むしろ幹として生きたからこそ、世界に対してほとばしる好奇心を断つことができなかった。枝を伸ばすことを我慢する必要はないし、遠慮もいらない。感性が命じるまま、やりたいように日々を燃焼させただけだ。そしてそれこそが、ゲーテにとっての生きている実感であったのだろう。
肉体に疲労があるように、精神にももちろんそれはある。肉体ならばマッサージをしてもらったり、ゆっくりと休むことでエネルギーを取り戻せるかもしれないが、精神が悲鳴をあげた場合、そしてその理由が長きにわたる主体性の欠如にあった時、リフレッシュ休暇どころではどうにもならない虚無が心を覆っていることを私たちは知るのである。
そんな時に安寧を呼び込むのは、自らの幹をもう一度立て直すことだ。主体的に企て、意志をもって働きかけるその過程だ。これを行為と呼ぶ。そしてこの行為によってのみ、私たちは自由な精神を取り戻せる。自らの企画なら、小さな旅でもいい。誰も興味を示さない地味な町村を巡る旅であろうと、あなた自身の感性がそちらに触れたのなら、そこを歩むべきである。与えられた道ではなく、選んだ道を一歩一歩味わっていくことが、生きる実感の、裸の姿である。
――雑誌『ゲーテ』2007年8月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。'15年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。