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2020.05.10

現実のなかを生きることはなかなかに難しかった。ドリアン助川【ゲーテの名言⑪】

世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2009年3月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。

ドリアン助川【ゲーテの名言】

人間は、生来のものであるばかりでなく、獲得されたものでもある

――『ゲーテ格言集』より

時を越えながら、あなたはかつて雲間の煌めきとして地上を見おろしていた。この二丁目三番地に宿ったのは、そこに住む若い夫婦の笑顔が見たかったからだ。つまり、あなたは人間の子供としてこの街に誕生した。

なぜその夫婦を選んだのか。そこにどんな動機があったのか。それはどういうわけか忘れてしまった。肉体を得たことの喜びがあまりに大きかったからだろうか。

しかし、幼児の心をもって目覚めた時、雲の上で笑っていた天真爛漫さはすでに失われていた。現象のなかを歩くことはなかなかに楽しかったが、現実のなかを生きることはなかなかに難しかった。それが二丁目三番地との遭遇だった。

あなたを否定する者や迫害する者が街角から次々と現われる。嵐が吹き荒れ、通りの銭湯の煙突が倒れるようなこともあった。風向きの悪い季節が続き、自分の存在のはかなさに震えたこともあった。氷柱のような孤独に胸を刺し貫ぬかれ、三丁目四番地に引っ越そうと思ったことも。そう。肉体への執着に狂おしい思いをしたこともあったといえば、あった。

人間としての季節が、そうして過ぎ去っていった。あなたの若さは次第に失われ、肌の艶はなくなっていった。髪は白くなり、顔はしわでいっぱいになった。夜は何度もトイレに起きる。やがて左手には杖が握られた。

そこであなたは振り返る。肉体を得てからの日々を。そういえば、幸福という感覚があった。ひょっとしたらこれを得るために自分は人間になったのではないか。そんなふうに考えたこともあった。なぜなら、もうひとつ別の感覚が、通奏低音のように自らを貫いていたからだ。それは人の世で苦しみという。切なさという。なぜ、会った者とは必ず別れなければならないのか。特に、愛を感じた者たちとの堪え難い別離。

あなたもまた、そう遠くない日に雲へと戻っていかなければならない。そのことがはっきりとわかり始めた。するとなぜか、地上に降り立とうとした光であったことが、うっすらとよみがえるのである。

どうしてそれを長い間忘れていたのだろうとあなたは思う。この世にいる者たちもみなそのことを忘れている。それはなぜなのか。降りてきた理由を覚えていれば、あんなにも憎しみ合ったり、戦いに訴えることもなかっただろうに。だからあなたはきっと祈る。この二丁目三番地に降りてくる者たちの安穏の日々を。みんなには少なくとも、気付いて欲しいと。

物語になってしまったが、獲得とはおそらくそのような意味だ。人間として生きようとするあなたに、幸いあれ。

――雑誌『ゲーテ』2009年3月号より

Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。2015年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。

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