御年74 歳には到底見えないアグレッシブさと、その佇まいが印象的な中野善壽氏。 無理してでも頑張る! とは無縁の悟りの境地こそ、未知のものを生む秘訣だった。
目立たず欲せず身の丈で生きる
滝川 今日は天王洲アイルの寺田倉庫本社にお邪魔しています。天王洲アイルはかつての倉庫街のイメージが様変わりして、いたるところにアート作品が並んでいます。再開発を先導してきた寺田倉庫に、代表として就任されたのが8年前。社員数を14分の1にするなど、大胆な経営戦略を行い、1人あたりの売上を8倍に増やしたと記事で読みました。そして関連事業のいくつかも売却して、売上高を7分の1まで意図的に絞ったとも。
中野 大きければ生き残れるというわけではありませんから。自然界を見ていても、恐竜よりネズミとか小動物のほうが強したたかに生き残っているでしょう。ビジネスにしても、多くの人がわかりやすく覇権を握ることに躍起になるけれど、弱くても生き残っているところに目を向けたほうが、学びが多いと思う。世の中は計算外の積み重ねだから。
滝川 ご自身もとてもミニマリストで、収入のかなりの割合を寄付なさっているんですよね。
中野 27歳の時から、東南アジアの女性の就職支援や、子供たちの教育支援をしています。生きる為に必要な分を除き、稼いだお金は全部寄付している。だから稼ぎのわりにはお金ないんです(笑)。
滝川 27歳の時、寄付をしようと思ったきっかけはなんだったんですか?
中野 たまたま知り合いから、不遇な状況にある人たちの話を聞いたんです。当時は半年に五千円の寄付で子供たちが5人、高校まで進学できたんですよ。五千円なんて銀座で飲んだらすぐになくなる額でしょう。もともと欲しいものもないし、では寄付をして社会に還元しようと。
滝川 欲しいものがない。
中野 ええ、時計もクルマも家もありません。27年ほど台湾に住んでいるんですが、借家で、家賃が月に一万二千円。日本に来る時は、寺田倉庫が用意してくれた部屋に滞在します。下手にモノを持つと子供たちが喧嘩するしね。資産はプラスマイナス0円で死にたいなあと。
滝川 その考え方は昔から?
中野 そうですね、戦後の何もない時代に育ったというのもあるけど。それに僕らの世代は40〜50代の働き盛りにバブル経済を経験しています。人は同じだけの福を与えられていると僕は思っていて、人生の早い段階で使い切ってしまったように思える人が周囲に結構いたんですね。そして悲劇のきっかけは、たいていカネとマスコミ。ナントカ賞も怖い。
滝川 だからメディアにもあまり出られないのでしょうか。
中野 なるべく目立たない生活が一番だとは思っています。でもまったく何もしなければ仕事にならないし、ある程度は稼がないと世の中の役に立てないから、そのバランスはいつも、注意深く意識しています。
滝川 徹底していますね。ふだんはどんなスケジュールですか。週2日、オフィスに出勤されるそうですが、生活のリズムは。
中野 だいたい決まったルーティンで、空いた時間に予定を30分か45分単位で刻んで入れています。1時間以上時間がかかる予定はほとんど入れません。
滝川 常に動いている感じ。
中野 止まると何もしなくなっちゃうから。僕は欲しいものも、やりたいこともないんです。休日は食べるのも面倒くさいくらいで。遊びにも行かない。
滝川 そんな、仙人みたいな。
中野 昔は女の子にも興味あったけど、それももうね。睡眠欲はあるかな。だいたい4時間位は寝ているけど、今はヨーロッパ方面とやり取りしていることもあって、時差の問題や、移動の負担もあるんだと思う。5分でも時間があると仮眠します。それが幸せ。重要なプレゼン直前の待ち時間でも寝ちゃう。
滝川 緊張はしないんですか。
中野 あまりしませんね。実際以上によく思われる必要はないし、身の丈で話すだけです。ずっと野球をやっていたんですが、緊張しないから試合に強かったんですよ。小手先のことなんか考えない、とにかく思い切ってバットを振ることだけ考える。子供の頃の話ですが、監督の指示に従わないから、ずっと補欠でした。
滝川 指示に従わない?
中野 バントのサインが出ていても、思いっきり振る。ピッチャーとしても、カーブを覚えろと言われて、まだやりたくないと答えたら叱られて、試合に出してもらえなくなりました。
滝川 納得の行かない指示だったんですか?
中野 ボロ負けしていて、ランナーが1人しかいないのにバントしても勝てないじゃないですか。それに試合の記録は残ります。バントの上手い選手として記録されたくない。カーブだって、子供のうちにやったらすぐに肩を壊しちゃう。「今日だけよければいい」という仕事は、子供ながらにしたくなかった。
滝川 その頃から長期的な目を持っていらしたんですね。
中野 僕は両親がいなくて、育ててくれた祖父母も小学生の時に亡くなりました。野球は祖父の勧めで始めて、結構期待もしてくれていたから、途中で辞めるのは申し訳ない気がしたんです。特別に野球好きというわけでもなかったけど、せめて大学までは続けたいと。まあ監督にやたら怒られたので、世の中が理不尽で、どうにもできないことがあるんだっていうことを学ぶ機会にはなったかな(笑)。
食・アート・音楽の3柱で文創(文化創造)企業へ
滝川 100億円以上の規模になった事業は売却すると公言されていますが、一方で新しい事業も続々と発表がありますね。
中野 寺田倉庫の場合、話を持ってくるのはだいたい寺田さんですね。知り合ってからもう40年以上になるけれど、あれやりたい、これやりたい、とどんどん面白い提案がくる。「minikura(ミニクラ)」(箱単位で荷物を預かるWEBサービス)も、電子楽譜専用端末「GVIDO(グイド)」もそう。「GVIDO」は最初反対していたけど。
滝川 反対だったんですか。
中野 開発コストがかかりすぎるし、需要もあるかどうかわからない。でも山野楽器でモニター発表をした時、集まってくれたタレントさんやアーティストの方が、目を輝かせて興味を持ってくれて。そういう活動をサポートするシステムはいいなと思ったんです。ただハードを売るだけでは片手間なので、「OT TAVA(オッターヴァ)」というクラシック専門のインターネットラジオへの出資など、音楽関係のプラットフォームを構築予定です。食、アート、音楽の3つは文化の象徴ですから、音楽のプラットフォームを整えることで、寺田倉庫も総合的な文創企業になっていけたらと思っています。
滝川 ご自身は何か、チャレンジしたいことなどは?
中野 特にないけれど、寺田倉庫の後継者は決まっていますし、始まったものは必ず終わりがある。そうしたらまた何か、できることをやっていくんでしょうね。適応力はあるし、力まずに本当によいと思うことをしていれば、必ず残れます。むしろ、思いこみで頑張りすぎないことが大事なんじゃないかって。
滝川 すごい達観されていて。なんだかカウンセリングを受けている気分になってきました。
中野 僕の人生なんて行き当たりばったりですよ。住まいも本当はシンガポールの予定でした。途中で飛行機が台湾に臨時着陸して、じゃあもうここでいいや、って降りて、そこから27年。
滝川 ええ? その場で行き先を変えたんですか?
中野 計画性ないんです。何か感じたら即反応しちゃう。なるようにしかならないからね。
滝川 執着がないんですね。
中野 とはいえ生きるには稼がなきゃいけないから。稼いで、ちゃんと社会に還元する。僕が神様から与えられた仕事は、たぶん「還元する」なんですよ。たいしたことができるわけではないけれども、少しでも多く稼いで、寄付をすることで世の中に還元していきたいですね。
Yoshihisa Nakano
1944年生まれ。千葉商科大学卒業後、伊勢丹に入社。その後鈴屋に転職しバイヤー、商品開発担当として海外事業にも深く関わる。’97年台湾へ渡り、力覇集団、遠東集団の百貨店事業に関わる。2011年に顧問を務めていた寺田倉庫の代表取締役社長に就任。