サッカー日本代表引退を発表した長谷部誠。2011年に発刊された自身の著書『心を整える。勝利をたぐり寄せるための56の習慣』は、アスリートの著作として初のミリオンセラーを記録、日本中を席巻し、大ブームとなった。この一冊の企画・編集を手がけた雑誌「ゲーテ」編集長・二本柳陵介が、当時を振り返る。史上最高のキャプテンは、どのようにして誕生したのか?
企画書を送った後、マネジャーさんが長谷部選手に意思確認が終わったであろうタイミングを見計らって、マネジャーに連絡した。
「いかがでしょうか?」
そう極めて冷静に、でもドキドキしながら問いかけた。
「面白い企画だと思う。でも、ハセ(長谷部)は本が好きで、本を出すということに一種のリスペクトというか、自分なんかが本を出してもいいものか? と捉えているようです。まだW杯は先なので、また、大会が終わったあとに相談しましょう」
そうマネジャーから答えをもらった。
私は「可能性はある」と前向きに捉え、社内向けに企画書を作ることにした。当然ながら、出版社として会社のゴーサインがないと企画は進められない。でも、サッカーファンや(Jリーグ時代に所属した)浦和レッズサポーターでもない限り、当時の「長谷部誠」に対する認知度は意外と低く、企画を通すのに少し苦労した。
しかし、サッカー専門誌の専門家による南アフリカW杯23人予想で、ほとんどの選者が長谷部選手の名前があげていたことなども、ひとつの説得材料に使い、代表で欠かせない男であるとプレゼンした。やや強引だったかもしれないが、強い決意を込めて企画を通した記憶がある。
年が明け、2010年。
6月のW杯前の4月24日。中村俊輔選手、長友佑都選手、岡崎慎司選手、そして長谷部誠選手の4人が表紙となった雑誌「ゲーテ」が発売となった。その後、この4人はW杯のメンバーに選ばれたのだった(ホッとした)。
当時の日本代表は、当初、下馬評は高くなかった。苦戦は当たり前、決勝トーナメント進出は難しいと予想されていたように思う。そんななか、岡田武史監督は、直前の親善試合や練習試合で数々の秘策を繰り出した。
アンカーという守備的なポジションを設定し、そこに阿部勇樹を先発で使い、GKを楢崎正剛から川島永嗣に。そして、松井大輔を起用し、本田圭佑をFWに据えた。そして、個人的にもっとも驚いたのが長谷部誠をゲーム主将に起用したことだった。
先日のロシアW杯。対コロンビア戦の冒頭で、香川真司選手が放ったシュートにより、ペナルティキックの権利を手に入れ、同時に、コロンビアの選手を退場に追い込んだシーンがあった。
GKの川島永嗣選手はこう思ったそうだ。
「追い風が吹いた。サッカーの神様っているんだ」と。
少し大げさだが長谷部選手がキャプテンに選ばれた時に、私も思った。
「きた! これは長谷部選手の本の後押しに必ずなる!」と。
一方でひとつ、私にとって誤算だったのが、川島永嗣選手の抜擢だった。当時、W杯前に楢崎正剛選手の『失点 取り返せないミスの後で』という新書を発売予定だった。この本は、結果的にある程度の売り上げは得られたのだが、当時は「まじかー」と青ざめたものだった。
『心を整える。』も無事に発売されて大ヒットを記録、大きな話題を集めた。南アフリカ大会の2年後くらいだったか、私は岡田武史さんとゴルフをする機会があり、その時、岡田さんにこう言った。
「長谷部選手の主将抜擢は慧眼でした。しかし、楢崎選手は変えて欲しくなかった」と。
これは、もちろん冗談なのだが、岡田さんには「編集者として、もう一生分のヒットだったのかもね。もうヒットは出せないな」と、同じく冗談で返された。
話が逸れた。
日本代表は南アフリカ大会で躍進し、ベスト16まで進んだ。長谷部誠選手もチームを束ね、自身も素晴らしいパフォーマンスを見せた。ベスト16のパラグアイとのPK戦。負けが確定した瞬間、多くの選手はうなだれて、なかなか動けなかった。でも、長谷部キャプテンは違った。すくっと立ち上がり、日本の選手を労い、相手を讃えに讃えた。
その行動に、長谷部選手のキャプテンとしての自覚を強く感じたものだった。
少し間を置き、私は改めてマネジャーに連絡をとった。
「長谷部キャプテンと、本を作りたい。今こそ、そのタイミングではないでしょうか?」と。
長谷部選手はゴーサインを出してくれた。
社内の雰囲気も変わった。誰しもが「長谷部誠」の名前を知っていた。そうして、私は長谷部選手の書籍づくりをスタートさせたのだった。
続く