パイオニアと呼ばれる人がいる。世の中の常識を疑い、固定観念を覆し、未来を切り拓くく! 頭ではわかっている、でも簡単ではない。いや、とてもマネできない。パイオニアと僕らは何が違うのか!? 建築家の安藤忠雄さんが日本人メジャーリーガーの先駆者、野茂英雄さんと語り合った。
変えない何かをひとつ持つ。異質なものを拒否せず受け入れる
世代を超え、活躍するフィールドを大きく超え、親交を深めている安藤忠雄さんと野茂英雄さん。安藤さんは野茂さんが主宰するNOMOベースボールクラブの活動を応援し、野茂さんは安藤さんをプロ野球のキャンプにアテンドした。1995年からメジャーリーガーとして、野茂さんが海を越えて活躍してきた背景にも、何人もの人生の先輩たちのサポートがあった。
安藤忠雄(以下・安藤) 野茂英雄さんと出会ったのは、近鉄バファローズ時代にバッテリーを組んでいた光山英和さんの紹介でしたね。
野茂英雄(以下・野茂) はい。光山さんを交えて一緒にご飯を食べたのが最初でした。
安藤 まず、事務所に来られた時、私はびっくりしました。
野茂 びっくり、ですか?
安藤 こんな身体が大きな人がいるんだ、と。これが世界レベルの身体なんだと。
野茂 ああ、それで……。
安藤 よく食べるし、よく飲む。でも、野茂さんの場合、それを全部吸収することで自分の活力にしている。食べるのも仕事の内なんだなと思いました。普段は寡黙で、飲まないとあまり喋らない人だとうかがっていたので、最初は少し不安だったのですが、食事を始めて30分後には大いに喋り、笑っていました。野茂さんの話は、現在と過去が入り乱れて型破りだけど面白い。
野茂 いえ、そんなこともないですけれど。
安藤 世界を相手に闘ってきた男の神髄を見たように思います。
パイオニア精神豊かなドジャースのオマリー父子
安藤 この対談のテーマは「パイオニア」です。パイオニアとはそれまで誰も見たことのないものを見させてくれる人だと思っています。そういう意味では、95年に野茂さんが海を渡って、ドジャー・スタジアムのマウンドに立った時、その姿はまさしくパイオニアでした。
野茂 あのゲーム、日本で見ていてくださいましたか?
安藤 もちろんです。テレビ画面に映るアメリカの観客は日本からやってきた見たこともないフォームのピッチャーに興奮していました。そして、そんな野茂さんやアメリカの観客を見て、私たちも興奮した。幸せを共有させてもらいました。バッターに向けて大きなお尻を向けるトルネード投法でね。「こんな投げ方でストライク入るのか!?」「なんでバッターの前であんなにストン! とボールが落ちるんだ!?」という驚きが、スタンドのファンの表情からよくわかりました。あの頃、アメリカでの野球人気も少し落ち気味でしたが、野茂さんのパフォーマンスを見に野球ファンが球場に戻ってきた。今思い出しても痛快です。これだけ人を引き付ける力を持った日本人がいるんだと。
野茂 私のフォームはアメリカでも最初は批判されたんです。
安藤 そうだったんですか!?
野茂 先発した最初の5ゲームは、勝敗がつきませんでした。野球は投打がかみ合ってこそ勝てるスポーツ。いくら好投しても、アメリカではファンもメディアも、勝たないと評価してくれなくて。特に私の場合はアメリカ人じゃないので、支持してもらえるまでに少し時間がかかりました。でも、勝ち始めたら、ものすごく応援してもらえるようになりました。
安藤 私は野茂さんが投げる姿を見て、50年代のプロレスラー、力道山を思いだしました。敗戦国の日本で、身体の大きなアメリカ人、シャープ兄弟をバッタバッタと倒す力道山と、アメリカ人のバッターからバッサバッサと三振を奪う野茂さんの姿が重なって見えました。まあ、野茂さんは、力道山を見ていない世代ですけれど。
野茂 さすがに見てはいませんが、もちろん知ってはいます。そう、私がアメリカで成績を残せた、そして応援してもらえたのは、最初に在籍したチームがロサンゼルス・ドジャースだったからだと思います。
安藤 ほう。それはどうしてですか?
野茂 ドジャースというチームは、自由というのでしょうか。固定観念に縛られていない。新しい異質なものに対する拒否反応が少ないんです。47年にジャッキー・ロビンソンというアフリカ系アメリカ人選手を初めて入団させたのもドジャースで、当時のオーナーのひとりがウォルター・オマリーさんでした。
安藤 それまで、メジャーリーガーは白人選手しかいなかったわけですね。それは、まさにパイオニアといえる球団ですね。
野茂 ウォルター・オマリーさんは、ニューヨークのブルックリンの狭いスタジアムを本拠にしていたドジャースを、57年にロサンゼルスに移転させました。広いアメリカの東海岸から西海岸へチームを移し、62年から今のドジャー・スタジアムを本拠にしました。建築家の安藤さんにはわかっていただけると思いますが、ドジャー・スタジアムは素晴らしいんです。青々とした空の下、パームツリーが美しくて、広告もありません。ファンが気持ちよく楽しめることを最優先しています。丘陵を切り開いたスタジアムは、スタンドのセクションごとに駐車場が分けられています。渋滞を解消するための工夫です。だから、家族でピクニックに行くような気分で野球観戦できます。
安藤 ロサンゼルスのドジャー・スタジアムも、サンフランシスコのジャイアンツ・スタジアムも、アメリカのスタジアムは、空や風や海といった自然を生かしているのが魅力ですね。日本はドームばっかりで、どこのスタジアムも同じに見えます。
野茂 私がドジャースに入った95年の時のオーナーはウォルターの息子のピーター・オマリーさんで、父親のマインドを継承していました。彼は「ノモがグラウンドで何も問題なく野球ができるようにサポートしろ」と、チームの監督、コーチ、スタッフに指示してくれた。だからグラウンド内では、私は野球だけに集中できました。
安藤 父親が初めて黒人を受け入れ、息子は日本人の野茂さんを受け入れた。人が何か大きな仕事をやり遂げる時には、必ず周囲のサポートがあります。野茂さんはどんなピンチに直面しても堂々として見えました。悠然としていた。その背景にはしっかりとしたサポート体制があったわけですね。
野茂 思い切り腕を振って投げる。私はそれだけを考えて野球をすればよかったのです。
投手ならばエースを目指せ。打たれても態度を変えるな
安藤 そもそも野茂さんの革新的ともいえるトルネードのフォームは、いつからですか?
野茂 中学生の頃です。誰かに教わったのではなく、いつのまにかああなっていました。
安藤 そりゃ、そうでしょう。トルネードを教える指導者なんていなかったでしょうからね。
野茂 高校生の時、野球部の監督は迷っている様子でした。フォームを変えたほうがいいんじゃないかと。
安藤 多くの監督やコーチは、選手を自分流にアレンジしたいでしょう。
野茂 そんな頃に、新日本製鐵堺の野球部に進んでいた7つ上の先輩が練習を見に来まして、私に言ったんです。「男ならば、何かひとつは変えないものを持て」と。それで「オレだけの投げ方で行く!」と決めたんです。私は勉強もできなかったし、野球以外には何もなかった。子供の頃から野球をしている時以外は、まったく目立たない存在で、ボールを投げることしかできませんでした。だから、せめてフォームは頑固に変えずに生きていこう、と。
安藤 ストン! と落ちるあのフォークボールも高校時代に身につけたんですか?
野茂 フォークは新日鐵堺の2年目からです。1年目から来る日も来る日も練習していて、ある日、ストライクゾーンからボールゾーンへ落ちました。あの日のことは忘れません。
安藤 フォークを身につけて、自信、ついたでしょうね。
野茂 はい。さっき、安藤さんが「マウンドでピンチを迎えても悠然としていた」と言ってくださいました。そういうマインドになったのも新日鐵堺の2年目頃からです。
安藤 何かきっかけがあったんですか?
野茂 先輩でチームのエースに清水信英さんという方がいらっしゃって。その清水さんに言われたんです。「ピッチャーをやるからにはエースを目指せ」「エースとは打たれても、味方がエラーをしても、態度を変えずに投げる選手だ」と。
安藤 野茂さんはつくづく先輩たちに恵まれたんですね。
野茂 清水さん、ドジャースのオマリーさんなど、私は出会いに恵まれたと思っています。
新しい才能を発掘し育てるNOMOベースボールクラブ
安藤 この春、野茂さんと光山さんと一緒に、プロ野球のキャンプを見に沖縄へ行きました。私が日本ハムファイターズの大谷翔平選手を見たくてね。
野茂 楽しかったですね。
安藤 ピッチャーとバッターの二刀流に挑戦していて今すごく注目されている大谷選手もまたパイオニアのひとりですが、プロ野球関係者でも、どちらかを選んで目指すべきという意見があります。そんななか、野茂さんはこのまま二刀流に挑戦し続けるべきだと言っていましたね。
野茂 大谷選手には素質があります。速いボールを投げる。ボールを遠くへ飛ばせる。この二つができる選手は、プロ野球全体でも特別な存在です。もともと持っている素質が大きいんです。しかも、大谷君はその片方ではなく、両方を持つ貴重な存在です。身体も大きいですしね。だからこそ挑戦してほしい。
安藤 野茂さんは「両方続けたら面白い」と。でも、野球は素人の私にはわからないから、必死になって見ていました。
野茂 選手はできることならば、許されるなら、ピッチャーもバッターもやりたいんです。私もやりたかったですよ。でも、やらせてもらえなかった。打つほうはもっと優秀な選手がたくさんいるからです。もし挑戦したとしたら、おそらくどちらも中途半端になっていたでしょう。しかし、大谷選手には、二刀流に挑戦しても中途半端にならない可能性を感じます。
安藤 彼の可能性の芽を摘まない監督やスタッフがいることも大きいのかもしれませんね。
野茂 周囲の大人に恵まれるかどうかは大切ですね。
安藤 野茂さんも、兵庫県の豊岡でやっているNOMOベースボールクラブで、若い選手の可能性を広げようとしています。
野茂 私は高校時代、無名に近い選手でした。新日鐵堺へ進んで野球ができたから、プロに注目されました。その後メジャーに行くこともできました。でも、今は社会人野球のチームが激減しています。新日鐵堺野球部も94年に休部しました。もし私が社会人野球チームの少ない今の時代に高校を卒業していたら、違う人生になっていたかもしれません。だから、若い芽を摘まないためにも、NOMOベースボールクラブがプロへの足がかりになればと願っています。
安藤 私も豊岡に行きますので、選手たちがどうやって自分の人生を切り開いていくか、その姿を見させてください。
野茂 2005年に中日ドラゴンズにドラフト5位で入団し、今は横浜DeNAベイスターズにいる柳田殖生選手をはじめ、7人の選手がプロ入りしています。ひとりでも多くプロが生まれてくれるといいんですけれど。今は我慢の時です。
安藤 最近の選手はおとなしいような気がするんですが。沖縄で日本ハムと横浜の練習試合を見た時も、選手が練習が終わったらホテルの部屋にこもってコンピュータゲームばかりやっている話を聞きました。
野茂 まあ、でも、外で問題を起こすよりもいいような気がしますが……。それよりも、選手にはたくさんの人の支えによって野球ができていることを、もっと理解してほしい。
安藤 野茂さんがそうであったように。
野茂 私自身が周囲の支えをすごく意識したのは、新日鐵堺の2年目くらいでした。感謝の気持ちがあると、野球との向き合い方がまったく違ってくる。それが力になっていくんです。今はまだ我慢の時期ですが、NOMOベースボールクラブからプロに行った選手が活躍し、お金を稼いで、次の世代の選手が育つサポートをしてくれるのが願いです。
*本記事の内容は15年5月1日取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい。14年4月以降の記事では原則、税抜き価格を掲載しています。(14年3月以前は原則、税込み価格)