PERSON

2012.04.12

安藤忠雄が出会った驚くべきリーダーたちの決断の瞬間

閉塞感漂うこの時代、「そんな生き方じゃダメだ」と声を大にして言う建築家の安藤忠雄さん。そして、元気のない我々に「日本にはこんなすごい男がいたんだ」と熱く語る。それは日本人の人間力を取り戻すための、安藤さんのメッセージだ。

安藤リーダー

本当の決断力とは何か、勇気とは何か

 安藤忠雄のアトリエは、大阪梅田駅からクルマで5分ほどの静かな住宅地にある。地上5階地下2階、打ち放しコンクリートのビルだ。静止した液体のように滑らかなコンクリートの壁面に、緊張感のある機能美が漲っている。入口のドアに至るまで、余分な装飾は一切ない。
 
1980年からこの場所にあったというから、佐治敬三も樋口廣太郎も、みんなここに立ったのだと思うと感慨深かった。幾度か増改築が加えられているので、まったく同じ建物を見上げていたわけではないにしても、受けた印象に大きな差はないはずだ。
 
ふと思った。彼らはここでこのコンクリートの壁面を見上げた瞬間に、安藤に仕事を依頼することを決めたのではなかろうか。そして密かに微笑みながら、入口のドアを開けたのだ。この縦横の直線で構成された潔い美の向こう側に潜む、強烈な個性を彼らは愛したのだと思う。

 アトリエの入口を開けると、太陽の光がガラス張りの天井越しに木漏れ日のごとく降りそそいでいた。その光と一緒に、聞き覚えのある大声が真上から降ってきた。見上げるとコンクリートの箱の内部は1階から最上階の5階まで吹き抜けになっていて、声はその上の方から落ちてくる。

 上方落語の師匠を思わせるだみ声が誰の声かはすぐにわかったけれど、その声に混じって若い女性の声が聞こえる。しかもドイツ語だ。どうしたものかと戸惑っていると、4階のテラスから安藤の顔が覗いた。構わず上がって来いと言う。地上5階地下2階のビルなのに、内側はまるで彼が少年時代を過ごした大阪下町の長屋のようだ。大声を出せばどこにいても聞こえる。

 呼ばれて上がった4階には打ち合わせ用の大テーブルがあって、安藤はそこでスイスのテレビ局のインタビューを受けていた。

 東日本大震災復興構想会議の議長代理を務めていることもあって、海外のメディアからの取材が増えたらしい。この世界的な建築家が、破壊された土地にどんな未来都市のビジョンを描いているかに興味があるのだろう。震災報道が始まって1年が経とうとしている。欧米のメディアだって、そろそろ日本に関する明るい話題が欲しいのだろう。

 けれど、安藤はそういう話にはちっとも乗ろうとしなかった。建築以前の重要な問題を熱心に語っていた。ドイツ語の通訳が間に入っているせいもあるのだろうが、インタビューはなんだか微妙にかみあわない。

「このままでは日本は沈没する」

 何度も沈没という言葉を繰り返した。

「今の日本は、東日本大震災も含めて大変な状況になっています。先行きはまったく見えないし、このままでは間違いなくもっともっと悪くなる。日本は今までに奇跡を2回起こしました。1868年の明治維新と1945年の敗戦です。明治維新で日本は幕藩体制をぶち壊して近代国家を作った。そして太平洋戦争に負けて焼け野原になった日本は、わずか数十年で復興し、世界で2番目の経済大国にまで成長した。2回も奇跡を起こしたのだから、今回の危機からも必ず立ち直れると世界の人は言ってくれる。日本人の多くもなんとなくそう思っているんでしょう。だけどこの国が3度目の奇跡を本当に起こせるかといったら、私は大変難しいと思う」

 安藤は焦っていた。本気で日本の将来を案じていた。我々のインタビューも、そのままのテンションで始まった。

 挨拶も前置きも一切なし、思いが言葉となって機関銃のごとく溢れ出る。上方落語の師匠だって、なかなかこうはいかない。

かつては極限まで勉学に勤しんだ男たちがいた。

「日本は資源もエネルギーもない国です。それがどうして現代史の奇跡といわれるような奇跡を2回も起こせたのかといえば、それは人材があったからです。江戸時代末期の日本には、約三百の藩があった。その三百諸藩の教育が個性的だった。全国一律の同じ教育ではなかったんですね。この個性的な教育が、好奇心の強い覚悟のある人間を生んだんだと私は思います。松下村塾の吉田松陰はペリーの黒船に衝撃を受け、命懸けの密航を企てました。23歳の時です。彼はこの船に乗って世界を見て、世界を知らなければ日本の国に未来はないという、やむにやまれぬ気持ちに突き動かされた。大阪でいえば、大村益次郎や橋本左内など数多くの人材を生んだ、緒方洪庵の適塾があった。この人たちは文字通り寝る間も惜しんで勉強した。塾頭を務めた福沢諭吉は、2年間枕に頭をつけて寝たことがなかったというんですね。座りながら寝たというんですから。それくらい学問に打ち込んだわけです。そして、そういう人材があったからこそ、世界に誇る日本の明治時代が到来したんです」

 歴史を後から振り返れば、江戸時代が終わって明治の世の中になったのは、夜が明けて朝になるのと同じくらい当たり前のことのように思ってしまう。放っておいても、自然にそうなったのだ、と。

 けれど、それは怠け者の錯覚だ。時代というものは、人の手と意志で作るものだ。建築物と同じように釘の1本に至るまで、誰かが打たなければ新しい時代は開けない。まして明治という時代は、二百数十年間も国を閉ざして激動する世界情勢に目も耳も塞いでいた平和な国が、帝国主義の吹き荒れる19世紀の国際社会に放り込まれた時代だ。国の舵取りをひとつ間違えれば日本は消滅していた。官民を問わず命懸けで時代を切り開き、日本という新しい国を作ったのだ。

「1945年の敗戦の時もこの遺伝子が開花したんです。私がこれからお話ししようとしている人たち、佐治敬三さんや樋口廣太郎さんや盛田昭夫さんは、日本が完膚なきまでに叩きのめされた、あの敗戦の時に10代から20代の若者だった人たちです。この人たちが目の前の世界を真剣に見た。そして命懸けで生きてきた。その結果が、焼け跡から立ち上がり、経済大国となった日本だったわけです。終戦当時、日本に来たアメリカやヨーロッパの外交官やビジネスマンは、誰もが異口同音に日本は必ず立ち直ると言っていたそうです。『大人たちは死に物狂いで働いている。子供たちの目は輝いている。だから日本は絶対に復活する』とね。佐治さんも樋口さんも、そういう時代に大人になった人たちです。本田宗一郎さんも、ちょっと年齢は上だけど、やっぱり大きくいえば同じ世代ですよ。あの人も面白いよ。昔、頼まれて講演会をしたんです。そしたら、私の講演を聴いてた本田さんが手を挙げる。『面白い。僕も喋りたくなった』って。私の講演会なのに(笑)。『安藤さん、一時間時間延ばせるか?』って聞くから、大丈夫ですって答えたら、ほんとに自分が演壇に立って喋りはじめた。そういう面白い人が、昔はたくさんいたんです。今の日本人は、言われたことはやる。きっちりやります。だけど、後はやらない。本田宗一郎さんは、講演中に手を挙げて『僕にも喋らせろ』って(笑)。笑い話じゃなくて、そういう人が、今求められてるんだと思う。思いのある人、気持ちで生きてる人。それが滅びたら、日本は滅びるしかない。まだ駆け出しだった頃に、私は大阪で彼らと出会いました。思いの塊みたいなおじさんたちに出会えたことが、僕の何より大きな財産なんです」

 サントリーの佐治敬三と大阪の北新地で初めて出会ったのは1972年、安藤は31歳だった。建築事務所は立ち上げたが、仕事はまったくなかった。あり余る時間に、建築コンペに参加して落選を繰り返し、空き地を見つけては勝手に設計プランを書いて土地所有者に持ち込んで、迷惑がられていた。JR大阪駅前のビルの屋上をデッキでつないで緑化して地上30mの高さに空中庭園を作るという再開発プロジェクトを描き、大阪市の都市計画局長に持ち込んだりもした。もちろん門前払いだったが、何度もプランを練り直し、飽くことなく市役所に押しかけては追い返されていた。そういう時代のことだ。

安藤リーダー

佐治敬三|元サントリー代表取締役会長/1919年大阪生まれ。寿屋(現サントリー)創業者、鳥井信治郎の次男。'45年寿屋に入社。'61年代表取締役会長に就任。業績を伸ばす一方、文化社会貢献活動にも力を注ぐ。享年80。

「『お前、建築家らしいな』と佐治さんに言われたのは、その出会いから十数年後のことです。びっくりしてね。だって、その間に何回も会ってるんですよ。まあ、私は酒をあまり飲まないから北新地にもあまり行かないんだけど、それでもたまに行って佐治さんに会うと、どこを気に入ってくれたのかわからないけど、『ついて来い』って声をかけられる。何ヵ月かに1回というペースだけどそうやって一緒に飲み歩いていたから、当然私のことも知ってると思った。『佐治さん、僕の職業知らんのですか』って言ったら、『いちいち若造に職業は何やってるんだとか、どんな大学出たかとか聞くわけないやろ。人間は真剣に生きているかどうかだけや』って怒られた。それで『美術館の設計を依頼しようと思ってるんだけど、その前にお前の作ったものを何か見せろ』と言われて、〈住吉の長屋〉に案内したら、『狭い、寒い、不便や』と言ってさっさと帰ってしまった」

〈住吉の長屋〉は安藤の初期の代表作だ。大阪住吉区の三軒長屋の真ん中を切り取って作った間口2間奥行き8間の住宅。壁も天井も打ち放しのコンクリートで、開口部は入口1ヵ所しかない。しかも建物を3等分し、真ん中を中庭にしてしまった。そこは屋根がないので、雨の日は寝室からキッチンへと移動するのに傘が要るという型破りな設計だ。この〈住吉の長屋〉で安藤は日本建築学会賞を受賞し、建築家として実質的なデビューを果たすのだが、その1979年当時は賛否両論だった。高く評価する人もいたが、酷評する人も少なくなかった。ある大物建築家はこの家を『建築家よりも、この家に住む施主の勇気を讃えるべきだ』と評したという話も残っている。けれど安藤は、住む人の生活を考えずに、芸術作品を作るようなつもりで好き勝手にこの家を設計したわけではないと自著の中で述懐している。住居とは何か、人が生活するとはどういうことかを、徹底的に考え尽くして設計していたのだ。そして「住まうとは、時に厳しいものだ。私に設計を頼んだ以上、あなたも闘って住みこなす覚悟をしてほしい」(『建築家 安藤忠雄』新潮社刊)と、当時の安藤は設計を依頼してきたクライアントに言っていたという。

 安藤は、そういう〈住吉の長屋〉に佐治を連れて行ったのだった。『狭くて、寒くて、不便だ』は、正直な感想だったのだろう。

「それで話は終わりだと思っていたら、しばらくして佐治さんがふらりと私の事務所を訪ねてきて、『あの住宅には勇気がある。そこが気に入った。美術館の設計、やっぱりお前に頼むわ』と言われた。だけど、当時の私は住宅の設計ばかりで、美術館みたいな大きな建築物をやったことがなかった。それでもいいですか、と聞くと発破をかけられた。『情けないこと言うな。責任はまあ俺が取るにしても、お前が取るにしても、とにかく全力でやってみろ』ってね(笑)」

 そして、完成したのが大阪の天保山にあったサントリーミュージアムだ。安藤はサントリーの敷地のみならず、隣接する大阪市の土地と、さらにその先の国の管轄下にある海岸線までを計画の中に取り込み、壮大で美しい建築を完成させる。この建築が革新的な個人住宅の設計で世に出た安藤が、巨大な公共建築の分野へと進出する端緒となった。

「実を言うと、アサヒビールの樋口廣太郎さんが私の事務所を訪ねてきたのは、ちょうどそのサントリーの仕事にかかっていた頃のことでした。彼も突然ひとりで来た。面識も何もないのに。佐治さんもそうだけど、ああいう人はだいたいひとりでいきなり来る(笑)。誰やこのおっさんと思って『どなたですか?』って聞いたら『いや、アサヒビールの樋口や』って。びっくりしますよ。アサヒビールの社長が秘書も連れずに、私の事務所にひとりで飛び込んで来るんだから。私が描いた中之島の中央公会堂の再生案を見て来たらしい。『あれ面白いなあ』って言うわけです」

安藤リーダー

樋口廣太郎|アサヒビール名誉顧問 /1926年京都生まれ。京都大学卒業後、住友銀行に入行。'82年には同行代表取締役副頭取。'86年経営危機に陥っていたアサヒビールの代表取締役社長に就任し、立て直した。

 それは例によって、安藤が一方的に立案した大阪の中之島にある中央公会堂の再生プロジェクトだった。大正時代の建築で国の重要文化財でもある公会堂の外観と構造をそっくり残したまま、その内側にコンクリート製の巨大な卵形の構造物を挿入し、ホールとして再生するというのが安藤のプランだった。アーバンエッグと名づけたこのプロジェクトはもちろん採用されなかったのだが、この壮大で美しいアイデアに心を動かされた人は少なくない。そのひとりが、住友銀行副頭取を務めた後にアサヒビール代表取締役社長に就任、「スーパードライ」をヒットさせアサヒビール中興の祖といわれた樋口廣太郎だった。

「あれ面白いから。お前のこと気に入ったというわけです。それで『これをやってくれないか』って依頼されたのが、大山崎山荘美術館だった。この人もすごい人ですよ。いきなり来て、ポンとそんな大きな仕事の依頼をするんだから。だけど、この時私はちょうどサントリーの美術館の設計をしている時期だった。これ、普通はまずいことなんです。アサヒビールとサントリーはコンペティターだから。だけど、佐治さんも樋口さんも気にしなかった。事情を説明したら『そんなことはまったく問題じゃない。自由にやれ。気を使うことないから、思いきってやってくれ』と彼らは言うわけですよ。結局、サントリーもアサヒビールも、こういう自由な精神のもとに進んでいったのが、あれだけ大きく成長できた秘密だと思う。リーダーには決断力と勇気と実行力が要るというけれど、私は彼らと付き合わせてもらいながら、本当の決断力とは何か、勇気とは何か、実行力は何かということを、口先の言葉でなしに行動で勉強させてもらったんです」

「ソニーの盛田昭夫さんもそういう人のひとりですね。あの人と初めてお会いしたのは1988年、私がスペインのセビリア万国博の日本館の設計をすることになったのがきっかけです。総合プロデューサーが堺屋太一さんで、盛田さんは日本館の政府代表だった。『自由で大らかなものでいこう』という話になって、私が設計したのが、地上30mの木造ワンルームのパビリオンだった。だけど、スペインには木造建築に関する法律がなかった。そんな巨大な木造建築は誰も見たことがないわけです。スペイン側もかなり難色を示しました。だけど『ないものだから作ろう』って盛田さんは言うんです。その発想がいいでしょう。ないから作る価値があるって。あるものを作るのは、簡単かもしれないけど面白くない。世の中にないものを作り出すのはリスクもあるけれど、できた時の喜びは何倍も大きい。ウォークマンもその発想から生まれたわけです。30mの木造パビリオンも、盛田さんがいたから完成に漕ぎつけたんです。

安藤リーダー

盛田昭夫|ソニー創業者/1921年愛知県生まれ。海軍中尉、東工大講師を経て、'46年に東京通信工業(現ソニー)を井深大とともに設立。'71年代表取締役社長、'76年より同会長に就任。享年78。

 1988年というのは面白い年で、京セラの稲盛和夫さんに初めて会ったのも、この年でした。誘われて、鳴門の鯛を釣りに行ったんだけど、メンバーが面白かった。その稲盛さんに三洋電機の井植敏さん、セコムの飯田亮さん、ウシオ電機の牛尾治朗さん、大塚製薬の大塚明彦さん、大前研一さんと私。そこで『安藤さんに仕事頼まなあかんで』って言ってくれたのが牛尾さんだった。私には『安藤さんは魚じゃなくて、今日はこいつらをみんな釣れっ』て(笑)。だけど、あの時は異常なくらい釣れました。漁船と年間契約してるとかで、釣れるのが当たり前らしい。あまりに簡単に釣れるので、こんなの面白くないって言ったら、稲盛さんに『今日は面白いふりしとけ。みんな疲れてるのに、面白いふりして釣ってるんだから』って(笑)。

 この時の付きあいは今も続いています。用事があったら電話するくらいだけど。どんな話するのかって? こっちから電話する時は、名前を貸してくれとか、金くれとかそんな話ばっかりです。瀬戸内海の島にオリーブの木を植えるとか、いろんなプロジェクトやってるから。今度の大震災でも親御さんを失った子供のために育英会を立ち上げたんだけど、そういうのに名前貸してくれとか、お金を出してくれって頼むわけです。だいたいいつもふたつ返事ですよ。細かい説明をしようとしても『わかった、わかった』で終わり。びっくりするような額を、ポンと寄付してくれる。そういう人たちなんです。お金儲けるのも上手だけど、使い方も上手ですね。儲けたお金は、社会のために役立てるというのが彼らの発想の根底にある」

もう一回、本気で気合を入れなきゃ、日本は本当に沈んでしまう

 電話一本で話が済むのは、安藤忠雄に私心がないことを彼らがよく知っているからに違いない。安藤はさまざまな社会的なプロジェクトを立ち上げているが、そのすべてが子供たちや社会の未来を見据えたものだ。建築物と同じように、社会のデザインも自分の仕事と考えて彼は取り組む。その公共意識が、安藤と大阪の名だたる財界人をひとつに結んでいるのだろう。

「稲盛さんも中之島の公会堂に卵を埋め込むという、私の勝手なプロジェクトを面白がってくれて、『私にもその卵をひとつ譲ってくれ』って言うんです。彼は鹿児島大学の出身で、創立50周年の記念事業として会館を建てることになったんだけど、その会館の設計に卵のアイデアを活かしてもらえないかってね。会館の建築費は10億円ほどだったんだけど、全額を稲盛さんは寄付してるんです。ところが、その稲盛さんの自宅が、失礼だけど、かなり老朽化してるわけです。ある時、誘われて行ったんだけど私が『稲盛さん、御自宅はこのまま使われるんですか』って聞いたら、『いや、これは親が建てた家だから。このままがいいんだ』って。会社のクルマもその自宅には乗りつけないんです。運転手つきのクルマで乗りつけたくないんでしょう。200mくらい手前で降りて、あとは自分で歩いていく。優しくて、細やかで、愛情深い人なんです。その鹿児島大の記念会館にキミ&ケサ メモリアルホールって愛称をつけたんだけど、それは当時ご存命だった稲盛さんのご両親の名前だと後から聞きました」

安藤リーダー

稲盛和夫|京セラ名誉会長・日本航空取締役名誉会長/1932年鹿児島県生まれ。'59年に京都セラミツク(現京セラ)、'84年に第二電電(現KDDI)を設立。2010年に日本航空会長に就任、'12年から名誉会長。

 ベネッセの福武總一郎と出会ったのも1988年だった。福武は瀬戸内海の直島を芸術の島にするという構想を長年温めていた。その構想を具現化する建築家として、安藤に白羽の矢を立てたのだ。けれど、最初はよく理解できなかったと安藤は言う。

「福武さんと一緒に直島を見に行って、その構想を聞かされたんだけど、無理だと思いました。当時の直島は、工場の亜硫酸ガスの影響で山は禿げ山、海も汚れていた。こんなところに美術館やホテルを建てたって、人は来ないだろうと思って最初は断ったんです。ところが福武さんは、この島を世界中から人の集まる島にしたいと言う。その思いを、熱烈に語るわけです。私は内容よりも、その思いに動かされて、やることにした。あれから23年経ったけど、福武さんの言っていた通りになったね。私も7つの建物を作りました。外国からもたくさんお客さんが来るようになったし、日本の若い人たちも、ちょっとアートに興味のあるような人なら誰でも知ってる。いつかは行きたいという憧れの島になった。ウォルター・デ・マリアとかジェームス・タレルとか、現代アートの作家たちもみんな福武さんに説得されて直島に足を運び、現地でさまざまな作品を作ってる。こんな島は、世界中探してもないでしょう。そして島民も元気になった。70歳、80歳の人までが、うどん屋をしたり、お店を出したりするようになったっていうんだから。人の意欲を喚起しているという点でも大成功です。それにしても、そこまで持っていった福武さんの情熱がすごい。夢に向かって突き進み、周囲をどんどん巻き込んで、自分の夢を実現してしまった。悪く言えば、かなりの自己中心主義者。だけどその自己中が世界を動かす。自己愛が、他者への愛につながるって福武さんはよく言うけど、本当にその通りだと思う」

安藤リーダー

福武總一郎|ベネッセホールディングス取締役会長/1945年岡山県生まれ。'73年に福武書店(現ベネッセホールディングス)に入社。'88年、直島文化村構想を発表。「経済は文化の僕」との思いで文化事業に積極的に取り組む。

「ロック・フィールドの岩田弘三さんは、世代でいえば彼らよりひと回り下の僕と同じ世代だけど、この人も面白い人です。最初に会ったのは1975年。神戸の北野町にローズガーデンという建物を作ったんです。1階に入ったのが岩田さんの店だった。西洋風のお総菜を作りますって言ってたけど、今やお総菜では日本一の会社でしょう。アールエフワンや神戸コロッケの会社です。デパ地下という言葉がこんなに流行ったのも、彼の功績でしょう。彼とはよく意見がぶつかった。『こんな看板つけたらいかん』とか、『こんなショーウィンドウあかん』とか、言い合いながら仕事してきました。でも彼は、考え方に筋が通っていて、その当時から『食文化が日本を決める』と言って、食育をやっていた。自分たちが売るものは、自分たちが責任を取らなきゃダメだと言って、使う野菜はみんな日本中の契約農家で作らせてたり。外国の野菜を使わないからその分高くなるんだけど、彼が言うには、お総菜は選べるんだから、高かったら買うのを半分にしろと。いいものをちゃんと食べるべきだって。商売をしている人間は、なかなかそういうこと言えない」

「20年前に彼の会社の工場を静岡に作ったんだけど、まず子供を預かる託児所を作るわけです。それから、一番いい場所に食堂を作った。社員は一番いい場所で食事をする、そこで自分たちの作ったものを食べる、もちろん食べ放題。それから工場の周りに、社員の数だけ柿の木を植えたんです。柿の木だけじゃなくて、ビオトープも作ったりして、森を増やしていった。初めはいわゆる工業団地だったけれど、今は森になった。森の中に、工場がある。毎年、その森で収獲した柿を送ってきてくれる。その柿がまた美味しいんだ。柿が美味しいのは岩田さんのおかげじゃないけど、やっぱりセンスがいいんだろうね。時代の先を読んでる。10年前に風力発電も始めて、あそこには今3基の風力発電が稼働してる。彼と仕事を最初にやったのは35年前だけれど、関係は今でも継続してます。みんなそうです。仕事は継続してなくても、なんらかの形でつながっている。だから、今回の大震災の育英資金も、そういう知り合いでやった。いちいち頼みに行っていたのでは、時間がかかりすぎるから。連絡なしの事後承諾です。彼らはみんな日本の今後を考えてる人たちだから、いちいち聞かなくてもいいだろうということでスタートした。長い付き合いやから大丈夫なんです。彼らの気持ちを知ってますから。みんな、お互いにそれをわかってる。何かを実現するために、自分の何もかもなげうって邁進する。そういう人間が、人間社会を引っ張っていくんです」

安藤リーダー

岩田弘三|ロック・フィールド代表取締役社長/1940年兵庫県生まれ。日本料理店での修業やレストラン経営を経て、'72年ロック・フィールドを設立。「神戸コロッケ」や「RF1」などを展開し、全国にデパ地下文化を根付かせる。

そこまで一気に話したあと、安藤はこう言った。

「だけど、そういう人材が今の日本の教育から出てくると思いますか? 大学なんて、遊び場だと思ってる学生のほうが多いでしょう。だいたい学生を全員卒業させるのがおかしい。あんなことしたら、大学に入った瞬間から誰も勉強しなくなるのが道理でしょう。大学は厳しくして、一所懸命勉強しないやつはどんどん落とさなきゃいけない。いろんな大学に呼ばれた時に、そういう話をしてるんだけど、誰も聞こうとしないね。冗談言ってるんだと思って、笑ってる人もいる。それで実際には何をしているかといえば、偏差値教育なるものを日本中でやって、全国一律の同じ教育をして、成績のいい子は東大、次は京大って振り分ける。そうやって同じような人間ばかりを作ってる。だから若者が好奇心を失って、生きる力を失ってしまった。最近は若者があんまり外国に行かなくなったというじゃないですか。幕末の若者は国が閉ざされていても命をかけてその扉をこじ開け、世界を知ろうとした。今の若者からはそういう強烈な好奇心が感じられない。このままじゃ、日本は本当に沈んでいくしかありませんよ」

 当然のことなのだけれど、彼の思想は彼の建築と似ていると、アトリエの廊下を歩きながら思った。廊下というよりキャットウォークというべきか。

 1階から5階までの吹き抜けの広大な空間の縁にあるその通路が、かなり緊張する代物なのだ。なにしろ幅が狭いうえに、手すりが低い。手すりの向こうは吹き抜けの空間で、上のほうの階ともなれば、見下ろせばちょっとしたビルくらいの落差がある。高所恐怖症ではないが、そこを通った時は足が竦んだ。

 おかげで普通の廊下なら、ぼんやりと歩くだけなのに、安藤のアトリエでは終始、自分の平衡感覚を意識せざるをえない。

 その感覚は新鮮だった。高い樹木の天辺に登って、下界を見下ろしている感覚だ。

「日本という国の唯一の資源だった人間力がどんどん失われている。日本はものづくり国家だといわれていたけれど、ものを作るのには人間が要るんです。その人間が居ない。手先が器用で、繊細で、ものを見る目が確かだっていわれてきたけど、今の日本人はもはやそれほど器用でもないし、繊細でもない。子供は鉛筆も削れないんだから。ものづくりには不可欠な忍耐力もなくなっている。日本人はもう昔の日本人ではなくなってるんです。そのことに早く気づかないといけない。何が何でも、我々はもう1回奇跡を起こさなきゃいけないわけじゃないですか。そしたら、ここでもう1回、本気で気合を入れ直さなきゃ、人間の力を取り戻さなければ、日本は本当に沈んでしまいますよ。そういう意味でも、彼らのような日本人がいたのだということを、僕は声を大にして伝えたい。今の子供たちの中から、彼らのような人間が育ってくるようにするにはどうしたらいいか。どんな世の中にしなきゃいけないか。そのことを考えて、そういう世の中を作っていくことが、私たち大人の責任なんです」

 安藤の建築には、はっきりしたメッセージがある。文字に書かなくても、彼の建築物の随所にそのメッセージが書き込まれている。それは、自然とともに生きてこそ、人は幸せに生きられるという哲学だ。建物は人間が快適な生活を営むために必要なものだけれど、過度に快適であってはいけない。なぜならそういう建築物は五感を弱らせ、生きる喜びを矮小化させるものだからだ。

 頬を吹く冷たい風、背中を濡らす雨の雫、真上から差し込む太陽の光……。普通の建築物が遮断してしまう、必ずしも快適ではない自然の要素までも設計の中に取り込むのが安藤の作る建物だ。怠け者の大人は、もしかしたらそれを不快に感じるかもしれない。けれど、それこそが子供の目を輝かせるために必要なものなのだ。
 
安藤忠雄は嵐を呼ぶ男だ。

 日本を復活させるために、彼はこの国に疾風怒濤を招こうとしている。その日が来るまで、安藤忠雄は走り続けるに違いない。

Text=石川拓治 Photograph=林 景沢、安藤忠雄建築研究所

*本記事の内容は12年3月1日取材のものに基づきます。価格、商品の有無などは時期により異なりますので予めご了承下さい

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