2009年から’15年の約6年半、のべ500日以上をかけて、47都道府県、2000近くの場所を訪れた中田英寿。世界に誇る日本の伝統・文化・農業・ものづくりに触れ、さまざまなものを学んだ中田が、再び旅に出た。 今回の旅は2019年12月に訪れた東京。
東京に伝わるガラスつくりの技術
大量生産・大量消費の時代、安価な海外産の商品が輸入されることで、日本国内の産業が衰退しつつある。ガラス産業もそのひとつ。昭和30年代には、東京にも50軒以上のガラス工場があったというが、現在は吹きガラスの工場は3軒しか残っていないという。そのうちの1軒、江戸川区にある田島硝子の工場を訪ねると、1400℃にもなる窯でガラスを溶かし、長い鉄の竿の先でまるで風船のようにふくらませる職人が汗だくになって働いている。別の場所で作られているのは、伝統の江戸切子。ここでは、東京に伝わるガラスつくりの技術がいまも脈々と受け継がれている。
「もともとは番頭だった祖父が独立して開業しました。最初は工場を借りてスタートしそうです。1956年の創業ですから60年以上の歴史はありますが、東京ではいちばん若いガラス工場です」(田島硝子株式会社・田嶌大輔社長)
経営が厳しいのは、田島硝子も例外ではない。伝統の江戸切子の技術で高い評価を得ていたが、「どうしても価格が高くなるのでなかなか売れないんです」。ピンチを救ったのは、富士山をかたどった「富士山シリーズ」だ。ビールグラス、日本酒用の盃、ロックグラスなど繊細な技術を用いたこのシリーズは、インバウンド客の土産物としても人気が高いという。
「2013年に富士山が世界遺産登録されたときに、ホテルからの依頼で作ったのがきっかけでした。最初はビールグラスを作り、ヒットしたのでシリーズ化しました。おかげさまで生産が間に合わないくらいの状態になっています」(田嶌社長)
田島硝子の強みは、クライアントのさまざまなオーダーに応えられること。色、形、カッティングなど、手作業ならではのオリジナリティを持つガラス器を作ることができる。ショールームに並ぶ、さまざまな商品を見ながら中田英寿もかなり興味を持ったようだ。
「日本酒のイベントをやるたびにオリジナルの酒器を作っているんです。いろいろアイデアはあるので、今度また相談にのってください」(中田)
「たまに無茶な注文もあるんですが(笑)、ベテランの職人にきくと『わかった』ってササッと作ってくれたりする。ガラス産業にとっては厳しい時代ですが、この伝統の技術は守っていかなければならないと思っています」 (田嶌社長)
工場では意外なほどに若い職人もたくさん汗を流していた。彼らに日本のガラス文化を守り、そして受け継いでほしいと思った。
「に・ほ・ん・も・の」とは
中田英寿が全国を旅して出会った、日本の本物とその作り手を紹介し、多くの人に知ってもらうきっかけをつくるメディア。食・宿・伝統など日本の誇れる文化を、日本語と英語で世界中に発信している。2018年には書籍化され、この本も英語・繁体語に翻訳。さらに簡体語・タイ語版も出版される予定だ。
https://nihonmono.jp/
中田英寿
1977年生まれ。日本、ヨーロッパでサッカー選手として活躍。W杯は3大会続出場。2006年に現役引退後は、国内外の旅を続ける。2016年、日本文化のPRを手がける「JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」を設立。