2009年から’15年の約6年半、のべ500日以上をかけて、47都道府県、2000近くの場所を訪れた中田英寿。世界に誇る日本の伝統・文化・農業・ものづくりに触れ、さまざまなものを学んだ中田が、再び旅に出た。
飛鳥時代から続く宮大工専門の建設会社
大きな旗に書かれた「南無阿弥陀仏」の文字。モダンな印象の変わったフォントだなと思って眺めていたら、あることに気がついた。かんな、のみ、のこぎり、げんのう……この文字、ぜんぶ大工道具でできている!
「この南無阿弥陀仏をデザインしたのは聖徳太子と言われています。飛鳥時代から受け継ぐ金剛組のシンボルなんです」(木内組棟梁の木内繁男さん)
職人の街として知られる大阪府堺市で訪ねたのは、現存する世界最古の建設会社「金剛組」の関西加工センター。金剛組は、全国の神社や寺の建設や修復を手掛ける宮大工専門の建設会社で、6世紀に聖徳太子が四天王寺を建立する際に百済から宮大工を呼び寄せて組織された「四天王寺 金剛建設部」から、その歴史が始まった。
中田英寿と旅をしていると、さまざまな歴史ある伝統工芸の職人に出あうがこれほどまでに長い歴史を持つものはさすがに珍しい。金剛組は、『匠会』という8つの宮大工の組の集合体で、木内さんが社長をつとめる木内組もそのなかのひとつ。現在全国には200〜300人の宮大工がいるといわれているが、そのうち約110名がこの金剛組に所属しているという。
「地方には、大工と宮大工を両方兼ねている方もいます。ただ普通の大工と宮大工が大きくちがうのは、大工は『人が住む家』をつくるけど、宮大工は『仏様が入る家』をつくるということ。私達がつくる建物は信仰の対象で、100年先、200年先までつかわれる。昔ながらの技術で、どんな天災にも負けない頑丈な建築をつくっていくのが宮大工の仕事です。そのために普通とはちがう技術があり、たとえば私たちは構造材に金属の釘をつかいません。サビが発生して、そこから木が腐るからです」(木内さん)
そう言って目の前に置かれたが木のブロックのような組木。精巧につくられたそれぞれのパーツにはまったく隙間がなく、がっちりと固定されている。
「たくさんの組木の種類があるんですが、昔のもののなかには、どうやってつくったのか頭をひねるようなものもあります。そういうのに出あうと、昔の宮大工から謎掛けをされたような気がして楽しくなるんですよ」(木内さん)
宮大工の技術がいかに高度なものか。それは木内さんのかんながけを見たらすぐに分かった。使い慣れたかんなを手に角材に向かうと、軽やかにかんなを走らせる。すーっと出てきたかんなくずは、向こうが透けて見えるほどに薄く、まるで木目の標本のようだ。
「かんなくずは0.1ミリ以下が基準です。今日はちょっと調子がよくないから0.07ミリくらいかな(笑)。うちの宮大工のなかには、0.03とか0.02ミリまで薄く削るやつもいますよ」(木内さん)
木内さんがかんなをかけたあとの木材をさわると、まるでワックスをかけたようにツルツルとしている。これが飛鳥時代から受け継がれた匠の技。中田もかんなを手にチャレンジしてみる。同じ道具を同じようにつかっているのに、中田のかんなくずは厚く、かつその厚みも一定ではない。
「力を入れすぎてもダメだし、抜きすぎてもダメ。一定の力で一気に引かなければならないんでしょうけど、さすがに難しいですね」(中田)
金剛組の宮大工は、全国各地の神社や寺に出張しては、建設や修復を手がけている。今度そういう場面に出あったら、その作業をじっくりと眺めてみたい。飛鳥時代から伝わる技術で未来をつくる。宮大工は、とてもロマンチックな仕事だと、木内さんの話を聞きながら思った。
「に・ほ・ん・も・の」とは
2009年に沖縄をスタートし、2016年に北海道でゴールするまで6年半、延べ500日以上、走行距離は20万km近くに及んだ日本文化再発見プロジェクト。"にほん"の"ほんもの"を多くの人に知ってもらうきっかけをつくり、新たな価値を見出すことにより、文化の継承・発展を促すことを目的とする。中田英寿が出会った日本の文化・伝統・農業・ものづくりはウェブサイトに記録。現在は英語化され、世界にも発信されている。2018年には書籍化。この本も英語、中国語、タイ語などに翻訳される予定だ。
https://nihonmono.jp/
中田英寿
1977年生まれ。日本、ヨーロッパでサッカー選手として活躍。W杯は3大会続出場。2006年に現役引退後は、国内外の旅を続ける。2016年、日本文化のPRを手がける「JAPAN CRAFT SAKE COMPANY」を設立。