2009年から’15年の約6年半、のべ500日以上をかけて、47都道府県、2000近くの場所を訪れた中田英寿。世界に誇る日本の伝統・文化・農業・ものづくりに触れ、さまざまなものを学んだ中田が、再び旅に出た。
25年間苦労して造った「宝剣」
広島は古くから知られる全国でも有数の日本酒の生産地。かつては、京都の伏見、兵庫の灘、そして広島の西条が三大酒どころと呼ばれ、広島出身の杜氏が西日本の酒造りを支えてきた。現在でも県内各地に酒蔵があり、美味しい酒を造り続けているが、そのなかでも注目を集めているのが今年の「SAKE COMPETITION」の純米酒部門1位に輝いた「宝剣 レトロラベル」を造っている呉市の宝剣酒造だ。
この酒を造っているのは、杜氏でもある5代目の土井鉄也専務。現在43歳、同年代の彼を中田は親しみを込めて「テッちゃん」と呼んでいる。このテッちゃん、若いころはかなりやんちゃだったようで……。
「やんちゃというか、音の大きなバイクでゆっくりと走っていただけなんですけどね(笑)。15歳で家を勘当されて土木作業員をやっていたんですが、18歳で結婚することになり、その承認をもらおうと渋々実家に帰ったら、そのまま酒蔵を手伝うことになってしまったんです」
当時は、パンチパーマにダブルのスーツ、シャコタンのクルマで営業に出ていたというテッちゃんだったが、21歳のとき杜氏をしていた父が急病で倒れたことから、自ら酒を造る立場になってしまったという。
「勉強会などには出ていたんですが、サボってばかりだったので、酒米は炊くのではなく蒸すんだということも理解していなかった。見様見真似で造って『オレの酒が日本一』なんて思っていましたが、地元では広島弁で『宝剣まずいけん』なんて言われていました。24歳のときに、酒の会に出かけていって先輩方の酒を呑んだら急に自分の酒が恥ずかしくなって、1本ずつ表から引っ込めていったんです。その悔しさから一念発起して、とにかく1本でいいからがんばっておいしい酒を造ろうと、心を入れ替えました」
それからはいろんな酒を呑み、先輩に話をきき、毎年のように造り方を変えながら「自分の酒」を造る努力を重ねてきた。「苦しかったけど、逃げようとは思わなかった」というテッちゃんの努力は少しずつ実を結び、ついに今年念願の日本一の称号を得ることができたのだ。
「1位になったとき、やったぞ! って妻に電話して犬のようにわんわん泣きました。25年間、僕が苦しんでいる姿を見て支えてきてくれたので、一番先に伝えたかったんです」
蔵を見れば、ここがいい酒を造っているんだなということがわかる。中田がよく言うのだが、「美味しい酒を造っている蔵は、掃除が行き届いている」。
食品を扱う"工場"である酒蔵をきれいに保つのは当然だと思うかもしれないが、長い歴史がある酒蔵は、増築・改築を繰り返し入り組んだ構造になっているところが多く、また酒造りの道具も長年にわたって使われるため、きれいに保つのはなかなか大変だ。宝剣酒造も1872年の創業。建物自体はかなり年季が入っているのだが、内部は手入れが行き届き、清潔感に満ちている。
「寿司を落としても食べられるくらいまで床を磨き込んでいます」
蔵の裏にあるのは、山を通って湧いている仕込み水の井戸。この水と地元産の酒米「八反錦」、そして長年にわたって研鑽を続けたテッちゃんの酒造りの技術があわさって生まれた日本一の酒。甘みがありつつもキレがあり、体にすっと馴染んでいくような喉越し。「瀬戸内の新鮮な魚とあわせて呑んでほしい」というのも納得の逸品だ。
「酒造りに正解はないし、満足もない。まだまだがんばらなければならないと思っています」
バイクで公道を蛇行していた男が、今は酒造りの道を真っ直ぐに進んでいる。その25年間の苦労を感じさせないクリアな味わいの酒は、一度呑んでみる価値がある。
「に・ほ・ん・も・の」とは
2009年に沖縄をスタートし、2016年に北海道でゴールするまで6年半、延べ500日以上、走行距離は20万km近くに及んだ日本文化再発見プロジェクト。"にほん"の"ほんもの"を多くの人に知ってもらうきっかけをつくり、新たな価値を見出すことにより、文化の継承・発展を促すことを目的とする。中田英寿が出会った日本の文化・伝統・農業・ものづくりはウェブサイトに記録。現在は英語化され、世界にも発信されている。2018年には書籍化。この本も英語、中国語、タイ語などに翻訳される予定だ。
https://nihonmono.jp/