ナイキ、アシックス、アディダス、プーマ、ニューバランス。超レッドオーシャンのスニーカー市場において、ここ数年よく見かけるようになったのがスイスのOn(オン)。今、アメリカでも大ヒット中。それを日本で広めたキーパーソンが、元Onジャパン代表の駒田博紀だ。後進ブランドであるOnが大躍進を遂げている秘密とは? 『なぜ、Onを履くと心にポッと火が灯るのか?』(幻冬舎)より、一部を抜粋して紹介する。【その他の記事はコチラ】
メジャーブランドにせよ。ただし、予算は400万円
僕とOnとの出会いは、2012年末に遡ります。
当時の僕は、スイスに本拠を置く商社の日本法人、DKSHジャパンに勤務していました。DKSHジャパンは、まだ生まれて3年目だったOnの、アジア太平洋地域の輸入総代理店になります。
当時、カジュアルウォッチのブランド「タイメックス」の営業を担当していた僕は、2012年12月のある日、事業部のトップに呼ばれました。普段、関わりがほとんどない上司の上司の、そのまた上司です。
その彼は、僕の目の前にポンとサンプルシューズを置き、こう言いました。
「Onというスイス生まれのランニングシューズのブランドがある。このブランドを新しく扱うことになった。アジア太平洋地域が対象だが、まずは日本。確か、駒田くんはスポーツ流通に関わりがあったね? というか、スポーツ好きだよね?」
僕の担当はカジュアルウォッチの「タイメックス」で、偶然ながら主要取引先にスポーツ用品店が多かったのです。ですが、特にスポーツが好きだったわけではありません。ましてや、走ることは子供の頃から最も嫌いなことの一つでした。
「いえ、そんなことはないです。僕がやっているのは空手でして。そもそも、走ることは何より嫌いで……」
しかし、上司はそんな話は全く聞いてくれませんでした。
「いや、もう君しかいない。君にやってもらいたい。断る選択肢はないと思ってほしい。このブランドをやるか、会社を辞めるか……」
僕は当時、営業としてある程度の結果を出していました。しかし、残念なことに結果にうぬぼれて傲慢になっているところがありました。自分でも分かっていました。他部署のメンバーや上司からは、生意気だと煙たがられていたことを。もしかして、これは厄介払いなのかな、と思いました。
しかも当時の僕は、プライベートもどん底の状況にありました。その年の9月、2歳の子供がいるのに妻とどうしてもうまくいかず、結局別れることを選択した直後のタイミングでした。
そんな中、委ねられたのがOnでした。僕に与えられた役割は、それを5年でメジャーブランドにすること。そんなこと、できるはずがない……。
その頃の僕は、自分の人生は絶望に満ちていると思い込んでいました。歳を重ねるごとに、状況はどんどん悪くなっていった。たくさん傷つき、辛く苦しく、何より恥ずかしかった。そこから逃げて、ようやく辿り着いた先で、またこれか……。そんなふうに思っていました。
しかし、そんな僕の人生を、Onは大きく変えることになるのです。