ART

2024.06.04

無人島に持っていきたい、累計800万部・世界の美術家が認める“世界一売れている”美術鑑賞の本

美術の歴史を書いた本や個別の美術作品や美術家の物語を書いた本はたくさんあるけれど、確かに、人類の壮大な営みとしての美術の物語を書いた本はないかもしれない。この本を手に取ったとき、まず、そう思った。そして読み進めていくうちに確かにそうわかったし、行間から美術への愛情が溢れてくるのを感じたものだ。■連載「アートというお買い物」とは

1950年出版の超ロングセラー

たまにあるアンケートだが、「無人島に1冊だけ持っていくとしたら、あなたはどんな本を選びますか?」というあれ。昔だったら「1冊なんて選べません」とか答えたかもだけど、今はこれでいいかなと思ってる。エルンスト・ゴンブリッチ卿(著者表記はE. H. ゴンブリッチ)の『美術の物語』である。

僕の持ってる版の表紙のビニールカバーに貼ってあるシールには「売上部数7,000,000突破『世界で一番売れてる美術の本』US News & World Report」とあるが、日本語最新版を出している河出書房によれば、現在では全世界で累計800万部になっているようだ。1950年に出版されて以来の超ロングセラー、超ベストセラーである。

35カ国語に訳されているが、日本語版はというと、最初に出たのは2007年にアメリカの出版社PHAIDON(ファイドン)からのもので、2019年に河出書房新社から新装版が出ている。マッシヴな画集のようなもので、ほぼB5判で688ページ、なかなかの存在感だ。

ここで紹介しておきたいのはもう一つの日本語版であるこちらのポケット版で、ちょうど辞書のような趣である。これはゴンブリッチ卿の没後に出た新版だそうだ。ページはおよそ1,050ページある。コンパクトにしたためになかなか強引な編集をしている。まず、図像ページと文章による解説ページを分け、解説ページには辞書で使うような薄い紙を使っている。図像と解説が分かれてしまったことについてはスピン(しおりのためのリボン)を2本つけることでその間を行き来できるようにしている。たとえばカラヴァッジョの《聖マタイと天使》のページの図像はこうだ。

エルンスト・ゴンブリッチ卿(著者表記はE. H. ゴンブリッチ)の『美術の物語』

この図版と離れている解説の方にはこうある。

「初老の貧しい労働者であり、一介の収税吏である男が、突然、本を書かねばならなくなったとしたら、どんなふうに座るのだろうか。考えたすえにカラヴァッジョの描いた聖マタイが、図15(左)だ」

禿頭、剥き出しの足、不安そうに書く様子を天使が助けている。しかし、この絵は聖人に対する尊敬の念を欠いていると、教会の信者から不評で描き直しをさせられ、図16(右)になった。現在、我々がローマのサン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会で見られるのはこちらだ。

カラヴァッジョが一つの解釈、知見を示したが、彼ほどの画家でも習慣や先入観を前に折れなければならなかった例として挙げている。

ちなみに元になった方の絵がモノクロなのには理由があって、結局、教会には掛けられなかったこの絵はある人物に買い取られ、ベルリンの美術館に保管されていたが第二次世界大戦の時の爆撃で消失し、モノクロ写真が残るだけだからだそうだ。もう一つ、余談をすると聖マタイに関する解釈は近代以降は変わっていて、使徒マタイと福音書記者マタイは別人であるとする説が有力なのだそうだが。

これも画家が伝えたいことを描くのが絵なのか、客観的にリアルに描写するのが絵なのかという議論の教材として、ピカソが描いた2つの鶏の絵を例に出している。

エルンスト・ゴンブリッチ卿(著者表記はE. H. ゴンブリッチ)の『美術の物語』

左ページはビュフォンの『博物誌』にもとづく挿絵本のためにピカソが付けたエッチングだ。ここでの解説はこうだ。

「(左の)雌鶏とよちよち歩きのひよこを描いたこの魅力的な絵に、文句をつける人はまずいないだろう。しかし、図12(右)はまったく感じがちがう。若い雄鶏を描くのに、ピカソは鳥の姿を写しだすだけでは満足できなかった。彼は、雄鶏の攻撃性と図々しさと愚かさを際立たせたかった。」

ここから解説は、2つの留意点を導く。まず、画家が見た物の姿を変形するのには、それなりの理由があったのではないかということ、もう一つは、自分が正しく、画家が間違っていると確信できないならば、不正確な描写であると作品を非難するべきではないということ。

次のグイード・レーニ《荊冠のキリスト》(左)と中世イタリア、トスカーナの画家の描いた《キリストの頭部》(右)のどちらもキリストの磔刑の場面だが、技術としてはレーニの方が上だとしても絵は好き嫌いで選んでいいという話。

エルンスト・ゴンブリッチ卿(著者表記はE. H. ゴンブリッチ)の『美術の物語』

これについて著者は「レーニの絵ほど感情表現があからさまでない作品の方を、かえって好きになることもある。言葉数が少なく、身ぶりが控え目で、奥ゆかしい人物を好ましく思う人がいるように、いろいろ考えさせられるような絵や彫刻の方が好きだという人がいてもおかしくない」と語る。

テオドール・ジェリコーの競馬の絵が、それから50年ほど後のエドワード・マイブリッジの写真によって、思い違いが明らかにされた例がこれだ。

エルンスト・ゴンブリッチ卿(著者表記はE. H. ゴンブリッチ)の『美術の物語』

以上、紹介したのは、「序章|美術とその作り手たち」からのもので、絵というもの、絵を描く人々について語る部分になっていて、ここからいきなり、読む側の興味をぐいぐい引きつけてくる。本書は28章に分かれていて、序章のあとは基本的に編年体の構成をとっている。およそ1万5千年前の先史時代洞窟の壁画から始まり、エジプト、メソポタミア、クレタの美術の話をし、ギリシャ、ローマへと繋がっていく。そうして、美術の長い物語が語られ、サルヴァドール・ダリ、ジャクソン・ポロック、デイヴィッド・ホックニーの作品などで終わる。

どんな時代のいかなる作品を取り上げるにしても、これは著者の方針だったのだろう、専門用語に頼らない解説を心がけていて、そのことは美術史の専門家からも評価されている。また、美術家たちもこの本に出会い、その後の人生があったことを語っている。世界文化賞を受賞した英国の画家、ブリジット・ライリーは19歳の画学生のときに読んだという。

「愛と学識、明晰さと洞察力に満ちたこの本は、美術を鑑賞するための礎石として今も存在している」。

また同じく英国の彫刻家でターナー賞も受賞しているアントニー・ゴームリーは15歳で読んだという。

「人間のさまざまな経験のなかで、美術こそがその中心に位置を占めると感じるようになった」。

大きな判型で、図版と解説が一緒になった卓上版を家で眺めたり読んだりして、旅行などのときにポケット版を持ち歩くのがいいかもしれない。そのまま、無人島に漂流しても、この1冊があれば……である。それはともかく、電子版があれば理想的だ。かなりの容量になりそうだが。

ゴンブリッチ卿はこんな言葉も述べている。

「美術の学習に終わりはない。つねに新しい発見がある。すぐれた美術作品は、見るたびにちがった顔を見せてくれる。どこか計り知れないところがあり、その点では生身の人間と変わらない。独自の不思議な法則につらぬかれ、独自の冒険へと人を誘う、わくわくするような独自の世界がそこにある。美術についてすべて知ってるなどと思ってはならない。そんな人はどこにもいない。なにより大切なのは、美術作品を楽しむには新鮮な心をもたなければならないということだ。ちょっとした手がかりも見逃さず、隠れた調和にも反応する心をもたなければならない。」

Yoshio Suzuki
編集者/美術ジャーナリスト。雑誌、書籍、ウェブへの美術関連記事の執筆や編集、展覧会の企画や広報を手がける。また、美術を軸にした企業戦略のコンサルティングなども。前職はマガジンハウスにて、ポパイ、アンアン、リラックス編集部勤務ののち、ブルータス副編集長を10年間務めた。国内外、多くの美術館を取材。アーティストインタビュー多数。明治学院大学、愛知県立芸術大学非常勤講師。

■連載「アートというお買い物」とは
美術ジャーナリスト・鈴木芳雄が”買う”という視点でアートに切り込む連載。話題のオークション、お宝の美術品、気鋭のアーティストインタビューなど、アートの購入を考える人もそうでない人も知っておいて損なしのコンテンツをお届け。

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TEXT=鈴木芳雄

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