誰もがその作品を一度は目にしたことがあるだろう。日本を代表する写真家のひとり、操上和美。現在84歳。60年以上にわたって最前線で活躍し続ける男の、いつの時代でも世間をあっと言わせる創造の源泉に迫る。
この美しい景色に、埋没してはいけない
操上和美が生まれて初めて津軽海峡を渡ったのは今から60年の昔、24歳の時のことだ。青函連絡船の三等客室は畳敷きで、船の底にあった。
「畳の目に爪を立てて身体を支えてたのを憶えてます。海が荒れて、そうしないと身体がざーっと滑っていっちゃうから。部屋の隅で誰かが吐いてて、そっちには行きたくない(笑)。いい加減嫌になって甲板に上がったら雪が降ってた、真っ暗な海に。二度とこの船には乗らないと決めた。自分で金を稼いで飛行機に乗れるようになるまで、北海道には帰らないって」
東京で写真学校に入って、写真家になるつもりだった。24歳とスタートが遅れたのは弟たちのために働いていたからだ。
「中学生の時、母が亡くなったんです。父も身体が丈夫じゃなかった。そして僕は次男で、弟と妹が合わせて5人いた。彼らを学校に行かせるために、僕は一生農業をやるつもりだった。農業機械なんて何もない時代だから、稲刈りも全部手作業。やることはいくらでもあった」
家族のために犠牲になるというような話ではない。富良野の開拓農家の次男に生まれた操上にとって、それは自然な選択だったし、やりがいもあった。北海道の農業だ。本州とはまったくスケールが違う。裕福というわけではなかったが、耕地面積が広大だから、農繁期には手伝いの季節労働者が十数人はいたという。牧場があって馬を飼っていたから、馬には物心つく前から毎日乗っていた。疾駆する裸馬の背に立つことくらい朝飯前だった。
「賞金稼ぎにばんえい競馬に出場して道内各地を回ったり、いろいろやってた。それは楽しいですよ。だけど弟を大学に入れて、ふと思った。俺はここで一生を終えるのかと。母を亡くした時、『母さんはこの盆地から出ないまま死んだ』って思ったら、無性に悲しくなったのを思いだした。富良野に不足があるわけじゃない。僕の原風景です。秋の実りの季節には盆地が一面金色に染まる。でもこの美しさに埋没しちゃいけないと思った。そして写真と出合った」
それはアメリカの『Life』誌に載っていた、ロバート・キャパの戦場の写真だった。
「戦争写真が撮りたかったわけじゃなく、写真家になったら遠くまで旅ができると思った。バイクを買って北海道中を回ったりはしてたけど、海を渡ったことはなかった。だから東京の大学に行っていた弟に、『いい写真学校を探して』と頼んだ」
そして入学したのが、重森弘淹が数年前に創立した東京綜合写真専門学校。重森は新進の写真評論家として注目されていた。当時34歳、操上の10歳上でしかないが、その話題の写真学校に才能が集結していたのだ。
「重森さんの講義がよくて、他の大学からも聴きに来る学生がいるって話だった。例えば篠山紀信さんとかね。彼は日大(芸術学部)だけど、重森さんの講義を聴きに来てたんです。それから沢渡 朔さんとか。友達になってみれば、みんな写真上手いし、写真のこと詳しいし、いいカメラ持ってるし、雑誌で仕事をしてる人も何人かいた。その時、全員天才かと思った。コンプレックスを感じたわけ。俺は田舎の出身で、写真のことは何も知らなかった。でも3ヵ月もしたら、気にならなくなりました。そうは言っても彼らは学生気分だったから。自分は今までプロとして生きてきたと。生きる要領は身についてる。写真の理論さえ自分のものにしたら負けない、そう思えるようになったんです」
プロとして生きてきたというのは、富良野で自然という厳しい現実を相手に家族を養ってきたという意味だろう。その歳月が自分のバックボーンになっていたことに気づいたのだ。日々の農作業は操上の身体を鍛え、富良野の風土は美意識を育んだ。そして自然相手の駆け引きは生きる知恵を授けた。それがすべて武器になった。結局のところ、農家であれ写真家であれ、成功の秘訣は一緒なのだ。自分の頭で考えるかどうかに、すべてはかかっている。そう気づいてからは早かったという。
24歳で写真学校に入った操上は、その3年後27歳にして独立する。きっかけはコカ・コーラのボトルだった。
被写体と対峙する時は常に怖い。だから徹底的に学び続ける
「学校を卒業して雑誌社に就職したんですが半年で喧嘩して辞めて、写真家のアシスタントについたんです。その先生がコカ・コーラの仕事をしていて、ある日撮影があった。グラスに注いだコーラとボトル1本。撮影が終わり先生が『じゃあね!』って帰ったあとのスタジオで、またセットを組み立てて、自分で考えたライティングで撮影してみた。コーラは真っ黒だから撮影が難しい。俺ならこうやるんだけどって感じで、いろんなライティングを試しながら3日徹夜をしたら、いい写真が撮れたので、いつもスタジオに来てたコカ・コーラの人に見せたら、すごく気に入って広告に採用になった。僕の写真を買ってくれ、それでカメラマンとして独立できたんです」
仕事を取るための営業はしなかった。そのかわり、目の前の仕事に人生をかける。例えばこういう風に。
「独立して最初の仕事が『ミセス』という雑誌で、草月流の勅使河原霞さんの花を撮影することになった。霞さんが花を生け終えて、僕はカメラを構えたんだけど、どうもよくない。生け花って人が動きながら見るものですよね。一方向からじっと見るものではない。だけど、写真にするとそうなっちゃうわけです。写真は定点観測だから。生け花という立体を、写真という平面で表現するには翻訳の必要がある。ファインダー越しに覗くと、いらない枝だらけなんです。あの枝とこの枝を切ればまとまると思ったから『先生ちょっと鋏をお借りしていいですか?』って言ったら……」
編集者が慌てて止めようとしたらしい。光景が目に浮かぶようだ。場は凍りついたはずだ。なにしろ草月流を創始した文化的巨人、勅使河原蒼風が健在だった時代の話だ。ダリやミロと親交を結び、世界中で絶賛された蒼風が放つ光芒はすさまじかった。この時期の日本の芸術表現の大半が、影響を受けたと言ってもいい。そもそも操上の恩師、重森弘淹が蒼風と深い縁のある華道家でもあったのだ。
勅使河原霞は、その蒼風が才能を認めた実の娘だった。後に草月流の二代目家元となる人物で、美貌と奔放な行動で世間の耳目を集めたマスコミの寵児だった。フリーランスになりたての無名の写真家でしかなかった操上が、駄目出しをした相手はそういう人だった。
いや、どんなに有名な写真家であろうと、普通はそんなことはしない。けれどそれをするのが操上という人で、操上は最初からそうだったのだ。
「嫌だと思いながらシャッターを切ったら、一生後悔すると思った。後先なんて考えなかった。確かに、そこでひと悶着起きる可能性もあった。でも先生はぱっと鋏を渡してくれたんです。『どうぞ』って。僕はちょんちょんと枝を二本切って、先生に鋏を返してガシャッと撮った。その時気がついたのは、自分の美意識に忠実な写真を撮ればいいんだということ。そういうことをきちんとやっていけば、自分の写真として成立するということを理解した。最初にあの経験をしたのが大きかった。嫌だと思いながらシャッターを切っていたら、そういうルーズなカメラマンになっていたかもしれない。納得できなくても撮ってしまうような……」
自分の美意識に従って仕事をする。それは当たり前のことのようで、現実にはそれほど簡単ではない。多くの人は多かれ少なかれ妥協し、他者となんとか美意識をすりあわせ、仲良く生きようとする。
操上はそれをしない。
ギリギリの危険を冒さないと、緊張感は生まれない
「『道端に咲く花を美しいと思えないとダメだよ』って、グラフィックデザイナーの田中一光さんに言われたことがある。確かにそうなんです。ただ歩いていたら発見はできない。道端に咲く花を美しいと感じ、そこにしゃがむ心を持ちなさいと。それはいまだに忘れないです。写真を撮るってそういうことなんです。この仕事はこうだから、これだけやればいいじゃなくて、そこに向かうプロセスで何かを感知。触発された瞬間に、僕らはシャッターを押す」
まるで近未来のSF小説みたいに世界が未知のウィルスに席巻された2020年、緊急事態宣言で事実上ロックダウンされる直前の東京で、操上がスタジオに籠もって撮影していたのは、例えば木村拓哉であり乃木坂46の少女たちだった。今この瞬間も、現役の写真家として刺激的な仕事をしているはずだ。
「殴られるかなって思いながら、撮影することはよくあります。泉谷しげるさんを撮影した時も。気に入らないことがあると、カメラマンを殴るという噂があった。まあ噂ですけどね。そういうことを聞いたらどうするかと言うと、殴られてもいいやと思ってしまう。それで彼を裸にして、鉛の板で巻いて足で踏んづけて、錆びて穴の開いたバケツを頭から被らせて……。結局は泉谷さん喜んでくれたけど。ギリギリの危険を冒さないと生まれない緊張感がある。その緊張感がセッションの面白さ。いい表情を引きだすとか些末なことじゃなくて、その場の空気を共有することが僕にとっては重要で。物なら物の存在感。人間ならその人の存在感。そういう何かを僕は撮らないといけない。それは相手を撮るんじゃなくて、極端に言うと、相手を利用して自分を写しているってことだと思う。変な言い方だけど、あの人撮ってもしょうがないかなって思う人もいる。撮っても俺が写らない。写真に俺が乗っからないなら、撮っても無駄だなって」
ある意味愚直に、自らの美意識だけで被写体と対面する。美意識の純度を高めながら、何千何万という被写体と、操上はそうやって向かい合ってきた。
その60年近くにわたる気の遠くなるような積み重ねが、その感覚を鋭く研ぎ澄ませているのだと思う。今年84歳を迎えた彼の写真が、これほどまでに見る者の心を揺さぶるのは、おそらくそのせいだ。操上は道端の花を美しいと感じる心を、いつまでも瑞々しく保ち続けている。
「それは仕事と関係なくね。美しさに触れた時に、美しさを感じられるかどうか。朝起きると僕はどこにいても、必ずカーテンを開けて空を見る。その日の天気はどうかなじゃなくて、今日の空を自分は美しいと思うのか思わないのか。雨が降ってても曇ってても、美しいと思える自分の美の感覚を起動させる。綺麗だなって思う。それで振り向くと、自分の寝たベッドにシワがある。ベッドに残したシワっていうのは自分の存在証明で、昨夜はここで寝たんだなって。それがひとり分のシワか、ふたり分かは別として(笑)。その自分の存在証明のシワがまたいいんだ。昔は毎日撮ってたこともあります」
そう微笑む操上の頬の筋があまりに格好よかったので、思わず蛇足の質問をしてしまった。生き方は顔に出ますか?
「そりゃ出るさ。生き方が顔に出なかったら、一生懸命生きる意味がないじゃない(笑)」
Kazumi Kurigami
1936年北海道富良野生まれ。'78年映像制作会社「ピラミッドフィルム」を創設(現在は中島 章氏が代表を務める)。主な写真集に『ALTERNATES』『泳ぐ人』『陽と骨』『KAZUMI KURIGAMI PHOTOGRAPHS-CRUSH』『POSSESSION 首藤康之』『NORTHERN』『Diary 1970-2005』『陽と骨Ⅱ』『PORTRAIT』『SELF PORTRAIT』『DEDICATED』、そして2020年、ロバート・フランクに捧げた『April』など。主な個展に「KAZUMI KURIGAMI PHOTOGRAPHS-CRUSH」(原美術館)、「操上和美 時のポートレイト ノスタルジックな存在になりかけた時間。」(東京都写真美術館)、「PORTRAIT」(Gallery 916)、「Lonesome Day Blues」(キヤノンギャラリーS)。映画監督作品『ゼラチンシルバーLOVE』(2008年)がある。