世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2007年9月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
われわれの最も誠実な努力はすべて、無意識な瞬間に成就される。バラが太陽の輝かしさを認めたら、どうして咲く気になるだろう?
――『ゲーテ格言集』より
かつて私はちょっと変わったバンドのボーカリストをやっていた時代があり、歌う、語る、絶叫の三種混合競技でステージに立っていた。あれは渋谷公会堂でのライブだったから、もう十五年ほど前の話になるのだが、初めてついた音響スタッフがエキセントリックな人で、音がうねって音程をとれなくなる曲がいくつもあった。私はパニックに陥ってしまった。そしてその結果、大観衆を前にひどく音のはずれた歌を歌ってしまったのだ。大はずしである。
しかも悪いことに、この時の模様がテレビで流れた。私はそれを観た。醜態以外のなにものでもない姿がそこにあった。私は折れたひまわりのようになってしまい、丸一日無言で過ごした。そしてなぜか東京を出た。
新幹線に乗り盛岡へ。酒を呑んで雪深き青森へ。こうして東北を転々としながら、今後の生き方というものを考え、深く反省し、これからはきっちり歌おう、勉強をし直そうと決意して戻ってきた。
と言えば聞こえのいい話なのだが、実はこれが失敗だった。気付けば、私はもう私ではなくなっていた。音をはずしてはいけないのは当然だが、それを恐れるあまり、周囲の音に合わせる小さな人間になってしまった。失速が待ち構えていた。天真爛漫に叫ぶことができた私は、そこで泡のごとく消え去るのである。
今振り返って、私には思うことがある。極論に過ぎるかもしれないが……人は反省などしてはいけないのだ。たかだか百年にも満たない私たちの人生である。他人を傷つけなければ、殺めなければ、あとは好きに生きていけばいいのではないか。アンケートの結果を見ながら反省会をやるバンドも知っているが、概してつまらないバンドであった。人の顔色をうかがっている段階で、純粋なる爆発は期待できないからだ。
バラは反省しない。自分と他者の比較もしない。ただ咲くだけである。私たち一人ずつが持っているなんらかの可能性も、同じようにとらえることができないだろうか。鍛錬があって初めて開く花もあれば、自ずから備わる天性の花もある。集団のなかの一人として窮屈な鉢植えに自分を押し込んでしまった時、あるいはより良く見せようとして身の丈を越える理想に縛られた時、咲き誇ろうとしていた花はそこで散ってしまう。
――雑誌『ゲーテ』2007年9月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。2015年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。