織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。今回は2019年2月号~2021年2月号まで2年にわたって掲載した人気連載「信長見聞録 天下人の実像」第十七章から第二十章までのまとめを再掲。
第十七章 織田信忠
信長は数え42歳の年に、息子信忠に家督を譲っている。天正三年(1575年)のことだ。何事においても徹底する信長は、家督だけでなく尾張も美濃も、岐阜城さえも譲り、茶道具だけをたずさえ筆頭家老佐久間信盛の私邸に移った、と『信長公記』には記されている。
我々の感覚からすれば早すぎる気もするが、当時はそれが普通だった。戦場を馳駆するのが彼らの仕事なわけで、走れなくなったら引退なのだ。だから戦国武将の隠居の年齢は、だいたい現代アスリートの現役引退の年齢と一致している。
ちなみにこの時、信忠は19歳だった。偶然かそれとも意図的なのかはわからないけれど、信長が父・信秀から家督を継いだのと同じ年齢だった。信盛屋敷に移った信長は、翌年安土築城を開始する。破壊の次は創造だ。第二の人生は、天下人としての人生だった。
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第十八章 無辺
聖徳太子が建立した石場寺が安土の東にあった。※1
3年がかりの大工事を経て安土城が完成し、壮大な天守に信長が移り住んでしばらくした頃、この寺の門前に、大勢の男女が集まって昼も夜も立ち去らないという珍事が起きた。石場寺の栄螺坊(さざえぼう)の所に滞在するひとりの僧が、奇蹟を見せるという噂が広まったからだ。
無辺と名乗る旅僧は、人々が謝礼に捧げた金品を受け取らずに、栄螺坊に与えてしまうらしい。私欲のない本物の聖者が現れたという評判が、山上で暮らす信長にまで届くようになる。
ある池に大蛇が出るという噂を聞いた時には、池の底に自ら潜って大蛇が実際に存在するのか否かを確かめようとしたくらいだ。この世の不思議というようなものに信長はいつも激しい好奇心を燃やした。この時も無辺の顔を自分の目で見たいと言いだし、安土城に呼びつける。
※1:現在の表記は「石馬寺」
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第十九章 佐久間信盛
佐久間右衛門信盛の評判は悪い。信長の折檻状(せっかんじょう)のせいだ。
天正八年八月、信長は自らの手で一通の書状を書き上げ信盛に送り、息子の信栄とともに高野山に追放する。これが有名な信長の折檻状で、信盛を譴責(けんせき)する言葉が書き連ねられている。
信長の自筆文書はほぼ残っていない。当時も珍しかったらしく、『信長公記』も信長の自筆だったことを強調している。怒りにまかせ自書したのだろう。信長に無能の烙印を押された信盛の歴史的評価は、すこぶる低い。けれど、この折檻状は別の読み方もできる。
信盛は信長の最も古い家来のひとりであり、筆頭家老の地位にあった。肩を並べられるのは柴田勝家くらいだが、その勝家も元は信長の弟・信行(信勝)の家老で、兄弟の戦になった時は信長の敵として槍を向けている。信盛は当時から信長の腹心であり続けた。
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第二十章 安土城
天正四年一月中旬、近江の安土山で城の普請が始まる。この普請は翌月に終わり、信長は岐阜から引き移るのだが、それはほんの手始めだった。本格的な石垣の建設が始まったのは、この年の四月一日だった。
ただの建設ではない。ひとつの石を運び上げるのに数千人、なかには一万人を要する巨石もあったという。ピラミッドの建造にも匹敵する巨大土木工事を経て石垣が組まれ、その上にあの有名な地下一階地上六階の安土城天守(天主)閣などの建造物群が築かれることになる。
信長の建設は早い。通常なら一年二年という期間を要するような工事も、数ヵ月で終わらせるのが常だったが、この天守の完成までには三年の歳月を要している。工事の規模があまりに大きかったというだけでなく、建築物の内装の細工が贅を尽くし、精緻を極めたものだったからだ。信長が安土城天守に移ったのは天正七年五月十一日だが、安土城の主立った建築物の内部を大々的に披露したのは、天正十年のことだった。
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Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。