織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。連載「信長見聞録-天下人の実像-」最終章 庶民。
信長のコトバ:「御茶を給べ候へ」
現代風の言葉を使えば、信長は現実主義者だった。現実主義の元祖マキャベリが没したのは信長の生まれる7年前だが、もちろんマキャベリの影響を受けたわけではない。信長の現実主義は、ある意味で、マキャベリより徹底的だった。マキャベリは当時の多くの欧州人と同様に神を信じていたようだが、信長は神も仏も信じなかった。この時代の日本において、それはかなり異質な生き方だった。
『信長公記』を読むと、当時の人々がいかに神仏や天道を心の拠り所にしていたかがよくわかる。人の運命を左右するのは天の理であり、不慮の死や災難の原因はその人の過去の行いのせいであるという記述がいたるところで繰り返されている。一向宗を始めとする宗教勢力が戦国武将を悩ませたのは周知だが、その戦国武将自身も神仏の加護を祈るのが普通だった。上杉謙信は毘沙門天(びしゃもんてん)を熱心に信仰したし、武田信玄の信玄はそもそも出家して得た法名(ほうみょう)だった。
彼らが神仏や天道に頼ったのは、人が理由を求める生き物だからだ。生きている限り死は隣にある。今も昔もそれは同じだけれど、彼らが生きたのは、それを朝に夕に意識せずにはいられない世界だ。世の中には死があふれていた。その死の説明が必要だった。理由がわからなければ、避けようがないからだ。死が日常の世に生きた彼らにとって、信心は救いだった。
信長はそれをしなかった。自らの眼と手で確かめ、考えて納得したものしか信じなかったからだ。人知を超えたもの、不可思議なものを尽(ことごと)く否定したわけではない。むしろ、好奇心を燃やした。だからこそ、大蛇が棲(す)むと人が言えば池に潜り、焼けた鉄で正邪(せいじゃ)が判定できると人が信じれば、自ら灼熱の鉄を握った。彼がキリスト教に寛容だったのも、宣教師の持つ自然科学の初歩的知識ゆえだろう。地球が球体であること、雨が降る仕組みを信長はすぐに理解したという。ただデウスの神は信じなかった。宣教師にもその存在を証明できなかったからだ。
あらゆる事柄について、他人の言説を鵜呑みにすることがない。自らの頭で考える過程を経なければ何事も信じない。そういう頑なな人間は、いつの世にも稀に存在する。信長がそのなかの巨星となったのは、彼が戦の時代を生きたからだ。
戦という厳しい現実が彼の現実主義を鍛えた。そしてその現実主義が日本の形を決めた。信長なくして、あの時代の誰が天下統一などという荒唐無稽(こうとうむけい)な夢を抱けたか。筆者がいつも考えるのは、その後のことだ。
宣教師フロイスは、信長がすべての大名諸侯に横柄な態度で接したが、その反面で、卑賤(ひせん)の家来とも親しく話したと記している。そして目の前で身分の高い者も低い者も、裸で相撲を取らせることを、はなはだ好んだという。フロイスがそのことをことさらに記しているのは、当時の貴顕(きけん)には極めて珍しい態度だったからだろう。
衣服を剝げば、身分などという世間の常識は無意味だ。信長が「はなはだ好んだ」のは、その事実ではないか。
若き日の信長が盆踊りを催し、その返礼に地元の年寄たちが踊りを披露した話が『信長公記』に記されている。信長は清須城に村人を呼び入れ、ひとりひとりに声をかけ、踊りを褒め、団扇(うちわ)であおぎ、『御茶を給べ候へ』※と茶を飲ませたという。
現実主義者が天下統一の後に創ったのは、いかなる世だったか。村人を団扇であおぐ信長の姿の先に、その世を想像するのはロマンが過ぎるだろうか。
※『信長公記』(新人物往来社刊/太田牛一著、桑田忠親校注)49ページより引用
Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。