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2025.02.10

嫌いな人のことを一日に何度も思い出してしまうのは「不自由な脳」の症状かもしれない

『最貧困女子』などで知られる気鋭の文筆家、鈴木大介さん。脳梗塞の後遺症で高次脳機能障害を抱えたことで、多くの貧困は「脳」に原因があることに気づき、貧困は決して自己責任ではないという確信を深めたといいます。約束を破る、遅刻する、だらしない……そんなイメージで見られがちな貧困当事者の真の姿とは? 『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』より一部を抜粋してご紹介します。

そのこと以外を考えられなくなる

障害発症から半年ぐらいの間、僕には自分に不愉快なことや失礼なことを言った人のことを「一日に何度も思い出してしまう」という症状が残った。そんなこと、誰にでもありそうなことだと思うだろうか? いや、絶対に違う。それは「明らかに症状」だった。

朝起きた瞬間、窓を開けてさわやかな朝日や外気を浴びても、頭の片隅に、その相手の顔があるのだ。緑豊かな道を散歩していても、脳裏にあいつがいる。脳内に、強力な粘着シールでそいつの顔が貼られてしまったようで、剥がせない。

そんなこと自体、この脳になる前には全く未経験のことだったからこそ、これは明らかに症状だと言えるのだが、それにしてもこんなにも無茶苦茶な違和感と苦痛を伴う症状がこの世に存在するものなのかと、自身でも驚愕した。

なぜなら、嫌なあいつの顔が脳裏の「そこにある」と気づいた瞬間、僕の脳内のすべての注意や思考は、その人物との不愉快なエピソードの記憶に全集中し、ガッチリとロックしたように「そのこと以外を一切考えられなくなる」のだ。

加えてその時には、その人物に不愉快な対応を受けた瞬間の苛立ちや怒りの感情が、「体験当時のサイズ」のまま、リアルにフレッシュに蘇ってきてしまう。駄目押しに、「そうなってしまう自分」を自分自身で一切コントロールできない、やめられない、止まらない

いわゆるフラッシュバックだが、これは本当に、地獄だった。

だが思い起こしてほしい。その時期の僕は、まさにレジで3桁の会計額ですら言われた瞬間に忘れるような記憶障害を抱えている時期でもあったのだ。いま見たばかりの数字すら瞬間で忘れる状況にもかかわらず、このネガティブな記憶においては逆に記憶力が大幅に強化されたように感じられる、この矛盾……。

そのせいでその当時の僕は「自身には記憶の障害がない」「見たばかりのものを忘れてしまうのではなく、他の情報に注意が飛ぶことが会計できない原因」などと誤認し、実際に仕事上での記憶絡みのトラブルが頻発する発症1年半後まで記憶障害はないと思い続けるありさまだった。

背景となった症状は、高次脳機能障害の領域では情動の「脱抑制」「易怒性」などとされる感情コントロールの困難と、注意障害による過集中の症状

易怒はそこまで普遍性のある症状ではないかもしれないが、ネガティブな感情への固着、特に「不安の感情」への過集中症状については、かつての取材対象者らや、発症後の拙著読者からかなり強く共感を得た症状だ。

だが、実はこれこそが、前述した「症状ゆえに債務履行のような重要課題があることを把握し続けることができない」につながるのではないかと思うのだ。

「不安スイッチ」が入ってしまうと……

ポイントは、この不安の感情や記憶に注意が固着してしまうのを、自身でリセットできないこと。一度考え出すとそのこと以外考えられなくなること。そしてその状況になると、脳のその他の認知判断機能がごっそりと失われてしまうことだ。

不安の感情が立ち上がった瞬間、僕の脳は、それこそ発作的な脳性疲労と同様に頭に濃霧が降りてきたように重怠くなり、思考がまとまらなくなり、人の言葉や文章の理解まで困難になる。

車の前に子どもが飛び出してきた直後のような緊張感がずっと続き、胸も喉も詰まり、横隔膜が挙上して肺を圧迫し続けているように、呼吸そのものが難しくなってしまう。

こうなるともう、まさにいま手元で進行しなければならない喫緊の課題まで、全く手に付かなくなってしまうのであった。

これにはほとほと困った。

なぜなら不安な感情とは本来、解決しなければ将来的に危機が訪れるような課題について起きるものだろう。にもかかわらず、その不安を伴う課題を直視してしまうと、脳がフリーズして、何もできなくなってしまうのだ。

立ち向かうための行動を起こさなければならないのに、逆に全く動けなくなるなんて、想像したこともない不自由だった。だいたい不安になると文字が読めなくなるとか、人の話が聞き取れなくなるとか、全く意味不明だ。

さらに面倒なのは、こうしたことを繰り返す中で、脳の中に「不安スイッチ」が作られてしまったように、その不安を「想起させるもの」が耳や目に触れるだけで反射的・自動的にドーンと頭が重くなり、脳を使う思考作業が一切できなくなってしまうことだった。

こうなるともう、どれほど非合理的であったとしても、現実的な打開策としては「何とかしてその不安から目を逸らす」しかない。

特に即解決への行動ができない中長期的な課題に伴う不安については、積極的に目を逸らし、不安を惹起させるようなものを徹底的に周囲から除外し、先送りにしなければならない。そうでもしなければ、いますぐにやるべき課題が何かの判断力すら喪失し、あらゆる課題が全く進まなくなってしまうのだ。

Amazonオーディブル『武器になる教養30min.by 幻冬舎新書』の〈鈴木大介と語る「『貧困と脳 「働かない」のではなく「働けない」』から学ぶ脳と貧困の関わり」〉で著者と編集者の対談も配信中

この記事は幻冬舎plusからの転載です。
連載:貧困と脳
鈴木大介

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