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2023.10.23

棋士・渡辺明「AI研究して戦えるのは45歳まで」

対局のネット中継が普及し、棋士たちの熱き戦いを多くの人が知るようになった。一方で、棋界を10年以上取材してきた新聞記者・村瀬信也氏は、カメラに映らない光景や対局室のマイクが拾わない言葉から、彼らが胸に秘める闘志や信念に接してきたと語る。将棋界を牽引する7名の棋士が現在の活躍に至る軌跡を、2022年刊の村瀬氏の著書『将棋記者が迫る 棋士の勝負哲学』より振り返る。第2回 渡辺明。【藤井聡太ら他棋士の記事を読む】※情報は2022年1月26日発売時のもの

絶好調の渡辺明の前に最大の敵が現れる

「負けました」

午後7時14分。藤井聡太が指した100手目△3六桂を見た渡辺が、そう告げて頭を下げた。藤井の史上最年少でのタイトル初防衛と九段昇段が決まった瞬間だった。

渡辺がタイトル奪還を目指して藤井に挑んだ第92期棋聖戦五番勝負。2021年7月3日に静岡県沼津市で指された第3局は、接戦のまま終盤戦に突入した。渡辺の攻め駒が藤井の玉に迫ったが、その切っ先を見切った藤井が絶妙手を放って突き放した。スコアは3勝0敗。藤井の完勝だった。

「いろいろあったが、終盤はわからなかった」。対局直後、渡辺はそう語った。残りの持ち時間が少ない中、気づいたら投了に追い込まれ、シリーズも決着──。急展開していく現実のスピードに、頭の中の整理が追いついていないように見えた。

藤井は2016年、中学2年でプロ入りした。「中学生棋士」の誕生は渡辺以来、16年ぶりのことだった。翌2017年、「公式戦29連勝」という新記録をデビューから無敗で樹立し、日本全国に「藤井フィーバー」を巻き起こしたことは記憶に新しい。

2019年2月。両者は第12回朝日杯将棋オープン戦の決勝という大舞台で、初めて対戦した。渡辺は、前年秋から数えて直近の成績が20勝1敗と絶好調。前回覇者の藤井との対戦はこれ以上ない豪華なカードだったが、勝利をつかんだのは16歳の藤井だった。

対局後、2人が大盤解説会に登場した際に印象的な場面があった。大勢の観客の前で中盤の勝負どころを振り返っていた時、藤井が渡辺側の好手を指摘したのだ。それを聞いた渡辺は「全然気づかなかったな」とつぶやき、考え込む。藤井はその横で、好機を与えることになった自身の指し手を反省していた。目の前で明かされる底知れない読みの速さに舌を巻いたのは、私だけではなかっただろう。

両者の次の対戦は、2020年の第91期棋聖戦五番勝負だった。早指しの朝日杯とは異なり、持ち時間は各4時間ある。渡辺にとって今度こそ負けられない勝負だったが、1勝3敗で敗れ、藤井の史上最年少でのタイトル獲得を許す結果となった。渡辺の名人獲得は、その1カ月後のことである。

名人を含む三冠となり、プロ入りから20年で将棋界の頂点に立った渡辺。だが、他の棋士たち、そしてファンも「名実共に1位」とは見ていない。言うまでもなく、藤井という存在がいるからだ。

2021年、渡辺と藤井は再び朝日杯の準決勝で対戦したが、勝ったのはまたも藤井だった。最も活躍した棋士に贈られる最優秀棋士賞も藤井が受賞した。そして、2年連続の棋聖戦敗退──。今の渡辺にとって、18歳下の藤井は最大の壁となっている。

これからの対藤井戦に向けて

「藤井とこれからどう戦っていくのか」。9月下旬、それを聞くために取材を申し込んだ。本人にとって愉快とは言えない話題であることは明らかだったが、渡辺はこちらの依頼にすぐに応じてくれた。場所は東京・将棋会館の応接室。3連敗で敗れた棋聖戦五番勝負について問うと、渡辺は淡々と分析しながら振り返り始めた。

「第1局は作戦がうまくいきませんでした。第2局は作戦は成功したものの、相手が間違えませんでした。第3局は中終盤での競り負けでしたね」

中でも痛かったのが、第2局の敗戦だったという。

「自分の方が王様が堅くて、持ち時間も残っている。それは、これまでの対藤井戦では初めての展開だったんです。でも、こういう展開でも間違えないんだな、ということがわかりました。それを踏まえてどう戦っていくか。また作戦を練ってやっていきたいというところです」

潔く語る一方、勝利をつかむためのアイデアが頭の片隅にあることをうかがわせた。

渡辺を取材する度に感じることがある。それは、勝負に臨んだり研究をしたりする上で「楽しい」という言葉を一切口にしないところだ。「好きこそものの上手なれ」という言葉を実践すれば成功できるほど甘い世界ではないが、そうした感情をここまで示さない棋士は珍しく思える。

棋士が将棋に取り組む環境は以前より厳しさを増している。背景にあるのは、今や当たり前になったAIを活用した研究の広がりだ。事前の研究にない手を指され、ノーチャンスのまま敗戦──。そうならないように日々努力を続けるには、感情を排したシビアな姿勢が必要なのかもしれない。

渡辺は言う。

「疲れるので、以前は土日は研究を一切しませんでした。でも、今はそれでは時間が足りない。AIでの研究に本腰を入れ始めた2018年頃から、『土日は休む』という概念はないですね」

「今後、棋士の選手寿命は短くなるかもしれません」

棋聖戦の後、渡辺は新たな「武器」を採り入れた。ディープラーニングという手法を採用している将棋AI「dlshogi」だ。従来のAIより序盤戦術が優れているとされ、他ならぬ藤井が活用していることで話題になっている。

渡辺は、この将棋AIを導入するために100万円を超すパソコンを新たに購入。将棋AIに詳しいソフト開発者を招いて設定してもらい、研究に使うようになった。だが、実際にどう役立てるかは試行錯誤している段階だという。

「dlshogiと従来のAIとで同じ局面を考えさせると、全く違う評価値を示すんです。正直、よくわからない。でも、藤井君は『序盤はdlshogiの方が強い』と断言している。整理できているんですよね」

栄光と挫折を経て、さらに上のステージに進むにはどうすれば良いのか。苦悩は続く。

約40分の取材の最後、私の中に一つの疑問が湧き起こった。終わりのないAI研究を繰り返して戦う日々は、いつまで続くのだろうか。「何歳ぐらいまで、こうした研究をして戦っていくつもりですか?」。渡辺はしばらく考え込んだ後、こう言った。

「イメージとしては45歳ぐらいまでですかね。このやり方は、従来とは疲弊の度合いが全然違います。今後、棋士の選手寿命は短くなるのかもしれません」

渡辺が45歳になるのは2029年だ。その頃、藤井は27歳になっている。棋士たちはどんな将棋を指しているだろうか。渡辺はタイトルを保持し続けているだろうか。

※「第3回 羽生善治」に続く

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渡辺明/Akira Watanabe
1984年4月23日東京都生まれ。所司和春(しょしかずはる)七段門下。2000年、中学3年の時に15歳でプロ入りを決める。2004年、弱冠20歳にして竜王位を獲得。2008年に竜王戦5連覇を達成し、初代「永世竜王」の資格を得る。2017年には棋王戦において5連覇を達成し、「永世棋王」の称号を得る。2019年、公式戦通算600勝を達成。2020年、第78期名人戦で自身初の名人位を獲得。タイトル獲得は竜王11、名人2、王座1、棋王9、王将5、棋聖1の通算29期で歴代4位。棋戦優勝は11回。本人がモデルとなった漫画『将棋の渡辺くん』(講談社)が話題に。

村瀬信也/Shinya Murase
1980年東京都生まれ。早稲田大学将棋部で腕を磨き、2000年の学生名人戦でベスト16に。2003年、朝日新聞社に入社。2008年に文化グループ員になり、2011年から将棋の専属担当に。大阪勤務を経て、2016年、東京本社文化くらし報道部員になり、将棋を担当。名人戦や順位戦、朝日杯将棋オープン戦を中心に取材。Twitter: @murase_yodan

TEXT=村瀬信也

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