建築家、公務員、ボクサー、そして料理人という異色の経歴を持つ、「クロッサムモリタ」の森田隼人氏。インタビューの2回目は、31歳から始まった料理人生、そして展開するすべての店舗が「日本でもっとも予約の取れない店」と呼ばれるまでになるまでの挑戦の日々を訊く。#1
ビジネスを因数分解すれば、成功できる
予約が7年待ちの会員制・劇場型肉懐石「クロッサムモリタ」を筆頭に、6つの肉レストランを展開、そのすべてが超人気店となり、「日本一予約のとれない森田」とまで言われるようになった肉業界の寵児、森田隼人。
その経歴は一筋縄ではいかない。まずは建築家として25歳で独立し、関西の街づくりを担った。そののち公務員試験に合格し東京都に入庁。けれど許認可の仕事よりも、ものづくりをしたいという想いから退職。その後は世界チャンピオン内藤大助のもとで、ボクシングに勤しんだ。そして「若いボクサーにいい肉を安く食べさせたい」と2009年、神田のガード下、わずか2.2坪の土地で立ち食い焼肉「六花界」を開業する。森田氏31歳の時だった。
「貧乏なボクサーにちゃんと肉を食わせたい、若い人に安く楽しんでもらいたい。そんな想いでいっぱいでした。建築士をやっていましたので、飲食店のデザインについては勉強していましたし、どこに行けば安い資材が手に入るのかも知っていました。さらに20代で、建築家・都市計画家として担当していた関西の街づくりの仕事のなかで、なんとなくお店の経営なども学ぶ機会もありました。それまでの全ての経験を詰め込んで、店を作ったのです」
森田氏は言う。「未経験だろうと、成功している店をひたすら因数分解すれば、自分も成功する」と。その因数分解の結果、たどり着いたのが、なるべく「仲介を入れない」ということだった。
体当たりで道を切り拓く
仲介を通さず、いい肉を安く直で仕入れる。確かに自ら牧場や農場を運営したり、直接農家と契約している店は、新鮮でいい食材が、ダイレクトでキッチンに運ばれる。軌道に乗れば仲介を通すよりも安価で提供でき、森田氏が思い描いく「若い人たちに安く肉を食べさせる」ことが叶うはずだ。しかしそれは、飲食業界未経験者にとってはあまりにもハードルが高く感じる。それでも森田氏は怯まなかった。
「始めた当初は、地図を広げて『牧場』と書いてある場所に闇雲に行って『牛をください』と突然お願いしたこともありました。そして、牧場の方に『ここは乳牛しかいないから、肉は屠畜場(とちくじょう)に行って』と教えてもらって(笑)。ほんとうに何も知らないところからのスタートです。
本来肉の市場は、仲卸業者しか入れませんが、入れないのに毎日、芝浦にある市場に通っているうちに根負けして小売業者を紹介してくださった方がいて、多くの肉を扱う店にも一緒に行ってくださった。そうして、さまざまな肉の商売方法を見せていただきました。新参者には、仕入れは非常に高い壁でしたが、とにかく諦めないことが肝心。今では、自分たちで牧場も運営できるようになりましたから」
さらに2.2坪の敷地ではビールサーバーを置くスペースがないため、アルコールは瓶を置いておくだけでいい日本酒をそろえた。当初は、肉に合う日本酒をと蔵元に探し求めたが「酒は魚に合わせるものだ」と笑われた。それならば韓国のマッコリのような酒をつくったらいいと、自ら酒造りにも携わるようになった。
こうしてできた、立ち食いの焼肉と日本酒の店は、メディアにも多く取り上げられ、連日多くの客がつめかけるようになる。
「立ち食いだから回転が早いと思いますよね。でもうちはあえて回転させず、ゆっくり食べて飲んでもらう。それで入れないお客さんが出てしまうのですが、その方々にはとにかく謝るんです。『今日はいっぱいですが、また来てください。お詫びに一杯、日本酒どうぞ』と。
彼らはいい意味で“貯金”なんです。そうやって真摯に対応し続ければ、またいつか絶対来てくれる。こうやって、街中にどれくらい“貯金”をつくっていくかが大事なんです」
開業から現在まで、「ボクサーは無料」を貫き通しつつも、森田氏はその後、店舗ごとにコンセプトを違えた店を数々展開する。それが私語厳禁の劇場型焼肉「初花一家」、畳で日本酒を嗜む「吟花」、酒屋と客をつなぐショールーム「五色桜」。肉と日本酒のペアリングレストラン「TRULIUM」。そして系列全店舗で常連になった者だけが行ける、最上級の会員制店舗「クロッサムモリタ」だ。
すべてのキャリアが交差して今がある
けれども一方で森田氏は、店舗を3つ展開する時点まで、自分が「料理人」だと、胸を張って言えなかった。それが森田氏の大きなコンプレックスであった。
「修行をせずに料理の世界に飛び込みましたから、ずっと『焼肉屋の森田くん』で、『シェフ』や『料理人』と呼ばれたことはありませんでした。けれど山田宏巳シェフ(テレビ番組『料理の鉄人』出演でも話題になった、リストランテ・ヒロのシェフ)が国内外さまざまな場所につれて行ってくださり、武者修行をさせてくれました。
しばらく経った頃、『福井にカニを食いに行くか』と言われて、『ハイ! 行きたいです!』と答えたら、それが山田シェフの開催するイベントで、その肉料理をシェフとして任せていただけたんです。嬉しくて泣きましたよ。そこから、やっと自分のことを料理人と名乗れるようになりました」
「僕はそれまでのキャリアを捨てたので、必死でした。でも先ほども申した通り、全部つながっているんです。クロッサムモリタの店舗は自分で設計しましたし、経営についても前職でなんとなくわかっていた。ボクサーでなければ焼肉にたどり着くこともありませんでした。それに他の仕事をしていた時代に貯めたお金があったから、飲食を始める時に借金を一切しなくてすんだ。そして公務員時代に感じた、ものづくりができない寂しさをバネに、今はクロッサムモリタでかけるプロジェクションマッピングなども自分で手がけています。なにより料理は最高のものづくりですよね」
それまでのキャリアがすべて交差して、現在地にたどり着いた森田氏。そして2023年「人生でいちばんワクワクする」という、新たな、そして刺激的な目標を見つけた。それがアフリカ・ナイジェリアでのとあるプロジェクトだ。