荻上直子監督は、個人の充足について描き続けてきた映画監督である。ジョージ・ルーカスなど名だたる映画監督を輩出する南カリフォルニア大学大学院で学び、2001年に自主製作映画『星ノくん・夢ノくん』を発表してから、自らの脚本によるオリジナルストーリーを手がけてきた。絶賛公開中の『波紋』は荻上監督の9作目であり、歴代最高の脚本と自負する作品だ。
日本は今、みんなが不安な状態
東日本大震災を機に忽然(こつぜん)と姿を消しながら、10数年後、病を経て戻ってきた夫・修。彼がそこで見たのは、新興宗教に身も心も捧げ、一心不乱に祈る妻・依子の姿だった……。
「今の日本は誰もが不安で、将来を悲観している」と指摘する荻上監督が、「絶望を笑え」と不安を笑い飛ばすシニカルな悲喜劇を作り上げた。気が早いが2023年を代表する作品『波紋』の製作意図を聞いた。
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――『かもめ食堂』『川っぺりムコリッタ』など、荻上監督はこれまで一貫して、個人の心の充足の在り方を探ってきたように思いますが、『波紋』は今の日本の状態の写し鏡として作られているのでしょうか。
「日本のあり方は意識していて、今、若い人も、お年寄りも、みんなが不安な状態だと思います。『この先、どうなっちゃうんだろう……』みたいな気持ちを抱えている。2015年に安全保障関連法が成立し、あのとき、一生懸命、若者が中心となって反対運動を起こしていましたが、与党はその声を無視して、その後も十分に議論することなく、特定秘密保護法、テロ等準備罪など法律を作っていきました。何を言っても、自分たちの声は聞き届けられないという諦めはありますし、そうなると希望も持てないので、不安材料の多さを前に、思考停止しちゃうっていうのは本当にわかります。何かしら拠り所とするものがないと生きていくのが難しいだろうなとよく思いますし、みんなが生きづらい時代なのかもしれない」
――筒井真理子さん演じる主人公の依子は、新興宗教を拠り所にしていて、高額な水やグッズを買いこんで、家中が侵食されている状態です。
「劇場パンフレットにとある方の評論が掲載されているのですが、そこに、日本の主婦というのは依子がそうであるように、“主婦”というポジションから逃れられないでいると指摘されているんですね。主婦の責務とか、役割とか、いろんな枠組みに自分をはめて、はめて、はめきったら、依子像になるのでは、と。でも、心の奥底で望んでいることはこうじゃないよね、ということをこの作品では描いています。
公開前に一般の方々を招待した試写会を開催したのですが、すごく笑いが起きるところってほぼ、女性の笑い声ばかりだったんですけど、依子に共感できるところが多々あるのかと思いました。依子がひとりで生きていけるための心の道筋はとても意識して作った脚本ですし、最後に、この立派な家は必要ない、ここを売ってでも、ひとりで生きていける強さを持って、今までとは違う場所に行ってほしいという気持ちも込めています。今、若い世代にも、家に入りたいという女性が多いと聞きますが、私は『いや、働こうよ、夫の収入だけに依存するのは怖いよ』と言いたくなります」
危機が迫った時の人間の心理
――『波紋』の脚本の面白さは、東日本大震災を発端に、光石研さん演じる修が、突然、家族を置いて出奔(しゅっぽん)してしまうところから始まることです。このアイディアはどこから生まれましたか。
「東日本大震災による福島原子力発電所の事故が起きたとき、直後に沖縄に移住したことを連絡してきた友人がいて、生に貪欲で、生々しくていいなと思ったんです。自分は放射能の問題など、怖い、けど、しょうがないという思考に陥っていたんですが、すぐに移動する人もいるんだと。
また編集者の友人の体験談で、震災直後、上司が『僕はもうこれから仕事はしない』と宣言して、出張先で部下二人を置いて、ひとりでタクシーに乗って帰っちゃったらしいんです。おそらく彼はそのとき、仕事よりも家族の安全を優先することにしたんだと思うのですが、何を優先するのか線引きしてしまう心理を脚本に生かしたところがあります。
実際、この映画が完成した後、スチールカメラマンの女性から、自分の友人の父親が、震災を機にいなくなって、その後、病気になって戻ってきたという話をしてくれて、本当に父親というポジションから逃げちゃう人がいたんだなと思いましたし、誰にもあり得る話だと思います」
――新興宗教の課金システムは今、社会的にも大問題になっていますが、この脚本はかなり前に書かれており、映画化が決まるまで何年もご苦労されたと聞いています。奇しくも作品発表と社会問題が重なったことはどう感じられていますか。
「宗教問題に関しては、面白おかしくというよりも、現実にこういうことがありうるということを重視しました。高額な水や、聖霊と教祖の波動を注入したディスペンサーなど、冷静に考えると意味がわからないんですけど、そのありえないことを受け入れてしまう人たちの心理ってなんだろうと考えてみました」
――荻上監督も我を忘れて投資してしまうような存在はいますか。
「普段からケチで、自分の持ち物や服はどうでもよくて、無駄遣いしないんですけど、たまに高額なものを買っちゃったりします。特に絵ですね。買った後、冷静になって、これ、必要だったかなとちょっと後悔しちゃったり。先日も、草間彌生さんが好きで、家が支配されそうなほどインパクトのある作品を購入しました。でもこれについては後悔していません(笑)」
真面目に演じれば演じるほど、思い切り笑える
――男性読者にとっては、光石研さん演じる依子の夫・修が間近な存在だと思います。彼は長い間、失踪しているのに、しれっと戻ってくる厚かましさや憎めなさに共感するかもしれません。
「今回素晴らしい俳優さんが集まって、皆さんが脚本をちゃんと読み込んでくださったことが、この映画が成立した大きな要因だと思っています。私の映画の持ち味ってやっぱりユーモアで、そこが自分のカラーだと思っているので、脚本を書いている段階から無意識に笑えるポイントを作っている部分があります。そこを真面目に演出したら、絶対に観客の皆さんは笑ってくれるという自信を持っています。今回はその意図を俳優陣全員が読み取って、とにかく真面目に、シリアスに演じてくれているので、逆に思い切り笑える構成になったと思います」
――特に、夫の修に対して我慢してきた感情を、職場で出会った人に「復讐していいんだ」とアドバイスされ、依子が本人の気づかない小さな復讐を果たしていく描写に大笑いしてしまいました。修役の光石研さんは、「荻上監督が実際にやっているのか聞きたかったけど、怖くて聞けなかった」と話されていましたが。
「いやいや。私はやってません(笑)。ただ、インターネットで、“夫“”復讐”とキーワードを入れてみてください。それこそ山のようにいろんな事例が出てきますから(笑)。そこの一番最初に出てきた事例を映画では試しました。結局、依子は、宗教団体での指導よりも、木野花さん演じる清掃員の女性のそのアドバイスが効くんですけど、かなり多くの女性が夫に気づかれないように何かしらの憂さ晴らしをしているようなので、みなさん、うっ憤をきちんと受け止めた方がよいかと」
――最後に、最近の世相で、これは映画にしたいと思う題材はありますか?
「最近、思っていることは、役に立つ人間であるべきなのかということです。子供が将来の夢を聞かれて、『人の役に立つ人間になりたい』と当たり前に言っている風潮が気持ち悪い。よく、アリの集団は、8割働くけど、必ず2割働かない層があるといいますが、人間の社会の中にも人のためにならない役割が必要とされている側面があると思う。だから、なんの役にも立たないことに、今、ちょっと注目しています」
荻上直子/Naoko Ogigami
1972年千葉県生まれ。千葉大学卒業後、1994年に渡米。南カリフォルニア大学大学院で映画製作を学ぶ。帰国後、2001年に自主製作映画『星ノくん・夢ノくん』がぴあフィルムフェスティバル音楽賞、2003年に長編劇場デビュー作『バーバー吉野』が第54回ベルリン国際映画祭・児童映画部門特別賞を受賞。その後も、2006年に『かもめ食堂』がヒット。2007年の『めがね』では第58回ベルリン国際映画祭で日本映画初のマンフレート・ザルツゲーバー賞、2017年の『彼らが本気で編むときは、』は第67回ベルリン国際映画祭で日本映画初のテディ審査員特別賞を受賞するなど、これまで数々の話題作を手がけている。