弟は昔から本当にずっと勉強していたと語る、ミサワホーム取締役前会長 竹中宣雄と、兄は色々な道を開拓してくれた憧れの存在だったと語る、慶應義塾大学名誉教授 竹中平蔵。和歌山が生んだ天才兄弟が語る思い出のエピソードを紹介。連載「相師相愛」とは……
末は社長か大臣か
宣雄 男3人兄弟で、私が長男、三男はアメリカにいます。平蔵さんで思い出深いのは、晩ご飯ができて呼びに行っても、勉強に集中していて気づかなかったことかな。何度もあった。
平蔵 まったく記憶していません(笑)。
宣雄 弟を褒めすぎたらよくないけど、本当によく勉強していたし、努力していた。バブルの最中、私が交通事故にあって入院していると、アメリカから戻ってきてくれて、枕元で教えてくれたのを今も覚えているんです。これからはポートフォリオ経営とコンパクトシティだよ、と。まだ昭和の時代ですよ。20年ほどして私が社長になったとき、このふたつは大きなキーワードになりました。
平蔵 ひどい事故で、あの時、通算して1年近く会社を休んだんじゃない? そんなに休んだのちに社長になったんですよね。
宣雄 60数ヵ所、骨折したから。
平蔵 子供は親の背中を見て育つ、と言いますが、男兄弟の次男や三男は、長男の足跡を見ながら歩くんですよ。野球が上手くてスポーツマンだった兄は、小さい頃から憧れでした。やっぱり長男だから、いつもいろんなことを考えてくれていて。こういう対談は初めてなんですが、今日は私の誕生日なんです。こんな日にセットしてくれるのが、長男なんですよ。東京の大学に進学するという道を開いてくれたのも兄でした。和歌山の片田舎で育ちましたけど、周りに大学に行く人なんて、いなかったんですから。
宣雄 東京に出てくると、よく一緒に野球を観に行ったなぁ。
平蔵 阪神が巨人をコテンパンにやっつけるのが観たくて。初めて一緒に行った後楽園球場は今も覚えていますよ。初戦は江夏、2戦目は村山。痛快でした。
宣雄 懐かしいね。それにしても「末は博士か大臣か」なんて言葉があるけど、平蔵さんは両方になっちゃったんだから。
平蔵 いえいえ、営業担当から始めて、大企業の社長になったほうがすごいですよ。でも大臣の時も、選挙に出た時も、思い切り助けてもらいました。母が「とにかく3人仲良くしろ」とよく言っていましたが、この歳になって、改めてその言葉の意味を思います。
宣雄 子供の頃はしょっちゅうケンカしてたけど、それは実力が拮抗していたから。今はかかっていってはいけない相手だとわかってるから(笑)。
平蔵 また、そういうことを言って、笑わせる兄なんですよ。
宣雄 父も母も、もう他界したけれど、忙しい合間を縫ってふたりの様子を見に来てくれたね。
平蔵 義務教育しか受けていない人たちだったけど、それこそ我々よりも教養がありました。知識ではなく、いろんなことを深く考えていたからだと思う。そういう時代を生きてきた世代の強さを思います。
宣雄 政治の世界にいる頃も、ふたりで合う時に絶対に公用車で来なかったのは、印象に残っている。平蔵さんは、本当にちゃんとしていた。
平蔵 小泉純一郎元総理はお酒もゴルフも楽しむけれど、私は両方やらない。それで、私の代わりに兄が行ってくれるようになりました。「お兄さん、ゴルフうまいなぁ」なんて言われたり。あっという間に人の心をつかんで、政治のコミュニティにもポンと溶けこめてしまうのは、さすが兄だと思います。
宣雄 やっぱり師かな(笑)。
平蔵 ビートルズをはじめ、音楽を教えてくれたのも兄でした。やっぱり人生は感動したいんだと思うんですよ。音楽もそうだし、スポーツもそうだし、旅行もそう。感動を共有することは、素晴らしい体験なんです。だから、少し時間ができるようになったら、いろんな感動を兄と共有していきたいですね。
宣雄 平蔵さんという人は、人の悪口を言わない人なんですよ。だから、一緒に過ごしていてまったく不愉快にならない。心地いい時間が過ごせるんです。これから自由な時間を増やして、たくさん話をしていきたいですね。
■連載「相師相愛」とは……
師匠か、恩師か、目をかける若手か、はたまた一生のライバルか。相思相愛ならぬ、相”師”相愛ともいえるふたりの姿を紹介する。