2022年シーズンで26年に及んだ現役引退を決意した中村俊輔。厳しい生存競争のなかで生き抜くための思考は'08年に上梓した『察知力』に詳しい。本書は20万部を超える異例の大ヒットとなり、多くのサッカー少年たちにも影響を及ぼしている。そんな中村俊輔チルドレンともいえる選手は少なくない。現在ベルギー・シントトロイデンでプレーする岡崎慎司選手もそのひとりだ。10年ほど前から年に一度、帰国したときに中村俊輔と会うことが至福の時間だと語る岡崎選手に「中村俊輔」のことを聞いた。
一番カッコいい終わり方だったと思う
――中村俊輔さんの引退を聞いたとき、どんなふうに受け止めましたか?
「足の手術をしたと聞いていて、その後もあまり回復状況がよくなくて、引退を決意されたと知ったときは、寂しさが一番にきましたね。でも、一番カッコいい終わり方だったと思いました。最後まで。引退会見もオンラインですべて見ました。いろいろな言葉が胸に響きましたよ。会見で『スッキリと終われてホッとした』と話されていたんですが、俊さんは横浜FCで最後の最後までレギュラーを目指して闘っていたと思うんです。最後のシーズンは控えに回ることも多かったけれど、逆に、だからこそリアルに競い合っていたなというのが伝わってきました。チャンスはまだあった。それでも、引退を決めたことに潔さみたいなものも感じます。僕のなかでは、この去り際はベストタイミングでしたね」
――カテゴリーを下げたり、ボールを蹴り続けることを選択することもできたのにそうはしなかった。
「そうですね。プロサッカー選手のキャリアの歩み方、選択は本当に人それぞれだと思います。現役を続ける人は『まだ終わりたくない』という気持ちが強いからだと思うし、自分で線を引いて『このレベルじゃないとプロとは言えない』と退く人もいるだろうし。その決断に他人がとやかくいうことはできない。本人の決断を尊重することだけだなと思います」
――引退会見の前に岡崎選手から俊輔さんへ宛てたメッセージが紹介されました。「背中を見せてくれた人だった」と。
「はい。引退するその姿までも、背中で示してくれたものがあると感じています」
――中村俊輔という選手を意識したのはいつだったのでしょうか?
「高校のときに'02年のワールドカップがあったんですが、そもそも僕は自分の試合以外、Jリーグや日本代表、海外のサッカーをあまりみない選手だったんです。でも、'05年にプロになり、サッカーを見るようになりました。それがちょうど俊さんがセルティックに移籍したころだったので、それくらいから、気になるようになりました。'06年のワールドカップドイツ大会のオーストラリア戦のフリーキックでゴールを決めたり、その後チャンピオンリーグのマンチェスターユナイテッド戦でもフリーキックから得点を奪っていて。あの印象が強く残っています」
――岡崎選手は2008年に日本代表へ初招集されました。俊輔さんとの出会いというのは、そのときになるのでしょうか?
「そうです。北京五輪が終わった数ヵ月後ですね。そのときに初めて話をしました」
――長友佑都選手は、俊輔さんにどんどん話かけていたと聞きましたが、岡崎選手はどうだったのでしょうか?
「僕から話す余裕はなかったですね。代表という環境に馴染むのに必死だったので。それでも俊さんがイジってくれたりして、気にかけてもらえているんだと嬉しかったことを覚えています」
「活躍したときこそ、チームメイトの話を」中村俊輔流信頼関係の築き方
――2009年の初先発以降、俊輔さんとともに試合に出場してきましたが、アドバイスなどで覚えていることはありますか?
「いろいろ残っていますよ。初めて先発した試合で、僕はトップ下のポジションだったんです。正直戸惑いもありました。そんなときに俊さんが『簡単にプレーすればいい』『ボールを受けて落としたら、裏へ抜けていけばいいんだ』とかいろいろ声をかけてくれたことで、緊張が和らぎました」
――大先輩からの優しい言葉だったんですね。
「はい。あとメディア対応についても、『試合でゴールを決めたり活躍したときこそ、自分のことじゃなく、チームメイトの話をすることが大事だ』とも言われたんです。『そうすればまたパスが来るから』と。ピッチ上で結果を残すだけでなく、そういうことでチームメイトとの信頼関係が築かれていくのかと納得しました。それは代表だけではなく、クラブでも同じこと。海外でプレーしている俊さんだからこその気遣いなんですよね」
――2011年に岡崎選手もドイツ・シュトゥットガルトへ移籍。ヨーロッパでプレーするという意味でも中村俊輔という選手の背中は大きかったですか?
「そうですね。俊さんのほか、小野伸二さんや稲本潤一さん、高原直泰さんなどヨーロッパでプレーする選手の存在は刺激になりました。ちょっと遠い存在だったけれど中田英寿さんや、代表でも共にプレーした俊さん、あと長谷部誠さんも含めた人たちは、欧州で日本人がプレーする土台を作った先駆者だと感じていました」
――俊輔さんは2010年に横浜F・マリノスへ移籍し、帰国していたので、すれ違いという感じでした。また、2010年のW杯南アフリカ大会以降、日本代表も岡崎選手たち世代が中心となり、俊輔さんが招集されることもなくなりました。その後、俊輔さんとの交流はどのようなものだったのでしょうか?
「そうなんです。会う機会が無くなってしまったんですよ。それで僕のほうからお願いして、俊さんと食事をする機会を作ってもらったんです。そもそも、プライベートで食事をすることも初めてだったので、最初は緊張しましたね。でも会って話せば、そんな緊張は無くなりました。俊さんとはただただサッカーの話を延々にしているだけなんですが、僕にとっては至福の時間でした。それ以降は年に一度は、俊さんに会うようになりました」
――その交流が長く続いているわけですね。
「はい。そういえば(笑)、ヨーロッパへ行って、1年目か2年目のころにぼそっと言われたんですよ。『岡崎は30歳になったら消えそうだな』って」
――それはなぜですか?
「特に理由や説明はなかったんですよ(笑)。僕もまだ20代半ばだったし、30歳までやれたら充分じゃないかというふうにも受け止めていましたし。でも、だんだん、俊さんの言葉の意味を重く考えるようになりました。当時からフィジカルの強さは僕の武器だと思ってはいたけど、年齢を重ねれば、当然フィジカル面での能力は落ちてしまうわけです。だから、このままでは通用しなくなる、消えてしまう可能性があるぞ、と言ってくれたんじゃないかと後から理解するようになって。それからは20代であっても足りない部分、たとえば、技術や思考、ポジショニングとかチームを俯瞰して見る眼など磨けるものがあるはずだと意識するようになりました」
――それが36歳の現在もヨーロッパでプレーしている今の岡崎慎司という選手を作ってくれたんですね。
「だと思います。その言葉を刺激と捉えて、30歳は越えようと。だから、俊さんが引退会見で『リスペクトする後輩は?』という質問で、長友(佑都)の名前を挙げたのはショックでしたね(笑)。まだまだ褒めてはもらえない、𠮟咤激励だと受け止めて、これからも頑張りたいです」
【関連記事】
「岡崎慎司、真のサッカー探求者である監督・中村俊輔への期待」は近日公開
「岡崎慎司が語る、中村俊輔の凄さ。想像もつかない日本代表10番の重み」は近日公開予定。
岡崎慎司/Shinji Okazaki
1986年兵庫県生まれ。2018年、ロシアワールドカップのメンバーに選出され、W杯3大会連続出場を果たす。'19年、キリンチャレンジカップのメンバーに選出され、森保体制での代表初招集。コパ・アメリカ2019のメンバーにも選出された。国際Aマッチ 115試合 50得点。現在はベルギー・シントトロイデンに所属。