男性スタイリストという職業の地位を自らの腕一本で高め、66歳を迎えた今なお木梨憲武、市川海老蔵、高中正義、葉加瀬太郎、田中将大ら数々の一流仕事人のスタイリングを手がけている。大久保篤志は、なぜこれほどまでに大物たちを惹きつけ、愛され続けるのだろうか?魅力の根源を知りたくて編集部は彼とその周辺を徹底取材し、その実像と半生を追った。すると徐々に炙りでてきたのは「反骨」と「アソビ」という相容れない生き様の同居だった。
『anan』『POPEYE』を経て広告の世界へ
今から39年前のこと。雑誌『anan』のスタイリスト8人が自由に別冊を作り上げるという企画があった。独立2年目の26歳・大久保篤志は、その誌上にて「ボクは、ボクサーだ」と題したコラムを執筆している。
「僕が思うスタイリスト、これはフットワークが勝利を呼び、左が世界をリードするボクシングの世界ととてもよく似ています。相手を倒す時の美的感覚、パワーある肉体。不屈の精神。どれもスタイリストの性格になくてはならないものなのです」
このコラムに滲みでているのは尖った反骨心と、それを覆い隠してしまうほどのアソビ心。大久保の半生は、そのふたつの精神が混じりあい、失敗と成功を繰り返してきたのだった。
服と音楽への異常なる愛情。天職との出会い
北海道歌登町(うたのぼりちょう、現在は枝幸町と合併)。旭川と稚内(わっかない)の間に位置する人口約3000人の田舎町が故郷である。音楽好きの叔父の影響もあり中学時代からレッド・ツェッペリンを聴き、音楽雑誌を毎月欠かさず購読した。
「同級生はみなフォーク。ロックの俺は誰も話し相手がいなかった。そういう気持ちを同郷の先輩、畠中仁さん(らーめん山頭火創業者)が救ってくれた。ホンダのクルマに乗ったり、ギターを弾いたり、とにかく愉しそうで、まさに心の拠り所だったんだよね」
畠中に話を聞くと、「あっちゃん(大久保)は、とにかく純粋で、音楽が好きで、音響装置と楽器があった私の部屋によく遊びに来てくれたね」と懐かしむように振り返ってくれた。
大久保の青年期は、「落第」の連続だった。高3の時に日本大学芸術学部を受験するも「勉強してないから受かるわけない」。高校卒業後は札幌に引っ越し予備校へ。しかし、そこでも大久保はアソビ人生をまっとうする。
「ジーンズショップとロック喫茶でアルバイト。再び東京で日芸を受けたけど、都会の人がどんな服着ているのか気になっちゃって入試どころではなかった」
結局、友人に誘われ文化服装学院に入学するため上京。それでも、学校には行かず、原宿・竹下通りの「パンツショップ ラー」でアルバイトをして、そこで大半の時間を過ごした。
1年で文化服装学院を退学し、その後、伊東衣服研究所に籍を置いたが、続かず……。そんな時、バイト先に出入りしていた生地屋に勧められ、コムデギャルソン・オムの立ち上げに伴い、面接を受けることに。
「履歴書を持って川久保玲さんと面接。“経験者を求めているので”、と不採用通知が届きました」
その後、同じ生地屋の紹介で、オンワード樫山に契約社員として途中入社した。
「パタンナーだったけど勉強してないからパターンもひけない。サラリーマンの世界はほんとにつまんなかった。1年半で双方ともに“もうやめましょう”と」
そしてたどりついたのが、雑誌『POPEYE』。素人モデルとして出入りするうちに憧れのファッションディレクター北村勝彦のアシスタントに。ようやく「ここが居場所だ」と実感したが、そこでも挫折を味わう。
「評価が低くて1年でクビ。服は好きだったけど原稿が書けなくてね。東銀座の喫茶店に上司から呼ばれて“君は才能ないからやめてくれる?”と。荷物を整理しに行った時に北村さんを中心に次号の打ち合わせをしていて、それが嫌だったね。みんな俺のことジーっと見てね」
1ヵ月ほど「ぼーっとしてた」というが、そんな時に自宅に1本の電話が。平凡出版社員の石﨑孟(現マガジンハウス取締役相談役)からだった。「ananでプレッピー特集をやるからオマエ、手伝ってみない?」と言われ「やります」とふたつ返事。当時25歳。この瞬間、スタイリスト大久保篤志が誕生した。ananで突如として、水を得た魚のように大活躍した。
「貝島はるみさんというファッションディレクターや編集者の秦義一郎さんや淀川美代子さんたちがかわいがってくれた。1年もたたずにひとりでいろんなことをやらせてもらって」
表紙のスタイリングを任された号が大ヒットし、クライアントから「行ったことないなら欧州に連れていくよ」と“ご褒美旅”に誘われた。
「フィレンツェでアルマーニのスーツを着こなすイタリア人に衝撃を受けた。そんな恰好をしている日本人いなかったから。旅行から帰ってきて仕事ができなかった。雑誌は自分のなかで終わったなと思って、次は広告の世界に行きたいと思った」
困った時になぜか助け人が現れるのが、大久保の人生だ。PARCOの広告・CMの仕事が舞いこんできたり、会社を設立したばかりのアートディレクター横山修一から海外ロケの誘いがかかったり……。仕事が仕事を呼び、その才能とキャラクターを誰もが認めた。なぜなら、大久保ほど服を愛し、大久保ほどよく食べてよく飲む男性スタイリストは、どこを探しても存在しなかったから。
著名人との仕事も増えた。その代表的な存在が矢沢永吉だった。独立6年目の1986年に『月刊プレイボーイ』の撮影でLAロケをやったのが初めての矢沢との仕事。’88年はツアー衣装を担当した。夢のような時間だった。
「スタイリストが入りこめる余地がない人は誰だろうと考えた時に矢沢さんしかいないと思った。矢沢さんのスタイリングができるのであれば、スタイリストをやめてもいいと思ったほど」
そんな時、事件は起こった。いや、起こしてしまった。
当時34歳だった’89年。ミュージシャン高中正義のジャケット撮影をするためにマイアミへ。その直後にはLAでハリウッド女優を起用した大きなCMの仕事が入っていた。しかし、大久保は突然失踪した。
「当時、大きい広告の仕事だと、宣伝部に加えて営業部までロケについてきたり、とにかく大名行列で。それに嫌気がさしてしまった。少人数の気の合う仲間でやったマイアミでの撮影が素晴らしすぎて、雑誌の感覚が蘇ってきた。これが基本だと。そこにマイアミの美しい風景が重なって俺はそのまま残った」
ビーチサイドのホテルを予約し、オーシャンビューの部屋にチェックイン。
「なんか走り続けたものがプツッと切れたんだよな。憧れだった矢沢さんや高中さんのスタイリングもできた達成感があって」
帰国後、CM制作会社から通告書が届いていた。罰金1500ドルの支払い。そして、何よりもそれ以降、矢沢からいっさい声がかからなくなってしまったのだ。
「やっぱり矢沢さんをスタイリングしている人間が仕事をばっくれたりすることなんて許されないことなんです。そんなヤツに矢沢さんの仕事は任せられない。ずっと一緒にやっていた時だったから迷惑をかけてしまったと思っています。当時のことを振り返ると、いまだに申し訳ない気持ちでいっぱいです」
ただ、意外と業界内で大久保が干されることはなかった。むしろ、愛され続けたのがこの男のすごみでもある。小室ファミリー、サザンオールスターズなどスターのスタイリングに加え、菊池武夫のショースタイリング。大きな仕事が舞いこみ続けた。だが心に穴はあいたままだった。
ある日、LAの日本食レストランでばったり矢沢と遭遇。会釈をしたが、特に会話もなく、気まずい雰囲気だった。その帰りの空港でまた会って「お疲れ様です」と声をかけた。その時に耳元で、言われた言葉がいまだに耳に残っている。「センスはいいんだから」ーー。
Atsushi Okubo
1955年北海道生まれ。’78年に上京し、文化服装学院などを経てオンワード樫山に契約社員として入社。退職後、雑誌『POPEYE』編集部を経て’81年にスタイリストとして独立し、雑誌『anan』で活躍。その後、広告やショースタイリング、著名人の専属担当などに活動の舞台を移し、評価を不動のものに。2006年からは自身のアパレルブランド「The StylistJapan®」を展開する。