時代が変わろうと、男を突き動かすのは"欲"という名の情熱だ。欲するものがあれば、男はいくつになっても走り続けられる。栄光、名声、そして金銭……アスリートとしてすべてを手に入れたように思えたこの男もまだ自身の情熱を、欲を捨てきることができないでいる。その無謀さ、がむしゃらさは、どこか美しくもある。新庄剛志は何を求め、再び肉体にムチを入れることにしたのだろうかーー。
復帰を決めたのは「脚光を浴びたくなった」から
48歳の新庄剛志は今、本気でプロ野球界への復帰を目指している。13年も現場を離れていたプレイヤーがおいそれと戻れるほど、日本のプロ野球は甘くない。だが、タキシードを脱いだ時、その鍛え上げられた肉体が彼の本気を語っていた。ボディビルダーのような作られた筋肉とは明らかに異なる。しなやかで、研ぎ澄まされた野生の獣のような肉体。とても48歳のものとは思えない。
「今は70%くらいの仕上がり。去年の11月にインスタグラムで復帰を目指すと宣言してから身体作りをしてきて、ようやく動けるベースができた感じ。12月のトライアウトを受けるため、これからプロのノックを受けたりしながら実践で使える身体に仕上げていくつもりです」
1990年、ドラフト5位で阪神タイガースに入団。3年目のシーズンに初安打を本塁打で飾るなど派手にブレイク、以後スター街道を驀進(ばくしん)することになる。2000年にはメジャーのニューヨーク・メッツと契約。年俸は日本の球団から提示された金額の10分の1、20万ドル(約2200万円)だった。当時は、同年にマリナーズと契約したイチローですら通用しないといわれており、実績で劣る新庄はスポーツ紙に「日本の恥をさらすな」とまで書かれるほど、その活躍は疑問視されていた。
「そういう逆境があるほど、みんなが批判すればするほど、僕は燃えるんです」
メッツの年俸10億円以上が揃う打線に入って徐々に結果を出すと、ついには4番を任されることに。楽しそうにプレイする彼を地元の新聞が“SHINJOY”と表現するなど、一躍人気選手となった。2年目のサンフランシスコ・ジャイアンツでは、日本人選手として初めてワールドシリーズへの出場も果たした。
そして2004年に日本球界復帰。彼が選んだのは、北海道日本ハムファイターズ。現在でこそ地元に根づいた人気球団となったファイターズだが、当時は本拠地移転1年目の不人気球団。「札幌ドームを満員にする」「ファイターズを日本一にする」。そう宣言した新庄の派手なパフォーマンスとプロフェッショナルなプレイは、たちまち道産子のハートを鷲摑(わしづか)みにした。そして迎えた3年目、開幕直後に「今シーズン限りでの引退」を宣言すると、他の選手も発奮。見事、有言実行となる日本一を達成する。彼の野球人生は、野球漫画のエンディングのような大団円を迎えることになった。
「現役時代の後半は、毎年それなりの金額を稼いでいました。CMも何本かあったし、テレビにちょっと出ただけで数百万円もらったこともあった。そのころは、欲しいものがあれば、指をさすだけでマネージャーが買ってきてくれた。クルマもいろいろ乗りました。どんなものを買う時も、値段を見たことがなかった」
彼は、すべてを手に入れた。はずだった。あとは好きなことだけして悠々自適なセカンドライフを送るだけ。2010年、その地をバリ島に決めた38歳の新庄に待っていたのは、思いがけない落とし穴だった。
「新人時代からもらったお金はすべてある信頼する人に任せていたんです。バリ島に移住することを決めて、そのためのお金を引きだそうと思ったら、『残ってない』と言われた。そんなはずはない、確かに何も考えずに使っていたけど、それでも10億単位の金額は残っているはず。でも確かめてみたら、その人が自分の会社の経営失敗の穴埋めに僕のお金を使いこんでいた。それを聞いて呆然としました。手元に返ってきたのは8000万円だけ。それを持って僕はバリに渡ったんです」
父のように慕い、信頼していた人の裏切り、そして誰よりも努力して稼いだ財産の喪失。そのふたつのショックにしばらくは落ちこむ日々が続いた。それでも10年の時間と、おおらかなバリの空気に癒やされ、彼は再び前を向いて走りだすことになったのだ。
“逆境”があるほど、僕は燃えるんです
「復帰を決めた理由は、ひと言でいえば『脚光を浴びたくなった』からかな。それが嫌な時期もありました。どこに行っても『新庄、新庄』って声をかけられてうんざりしていた。でもバリのジャングルみたいなところでずっと過ごしていたら、またスターの座に戻りたいという気持ちが湧き上がってきたんです」
とはいうものの、目指す場所がプロ野球というのはあまりにも極端かつ無謀だ。それは、彼自身も十分に理解している。
「13年間、ほとんど運動らしい運動はしていませんでしたから、ゼロどころかマイナスからのスタートでした。昔はトレーニングをしてもここがこう痛むだろうなというのがわかっていた。でも今は、身体を動かすだけで思いがけないところに痛みが走るし、それをどうやって治せばいいのかもわからない。最初は、11月からトレーニングをして、2月のキャンプに乗りこむ予定だったんですよ。でもコロナのせいでそれができなかった。むしろ、ついていたのかもしれません。プロ野球の開幕が延びれば延びるほど、『オレを待っているな』と思ってトレーニングに励むことができましたから」
復帰に向けて動けば動くほど、不安も増えているという。
「グラウンドに立ったら、ものすごく広く感じた。以前はセンターからキャッチャーまで軽々ボールを投げられたんですが、とてもそんなことができる気がしない。バッティングセンターに行っても120キロの球が150キロくらいに感じますからね。一番ヤバいのは動体視力かもしれません。ピッチャーが投げる生きたボールが見えるようになるかどうか……」
数々の不安を抱えながらも、彼は球界に復帰する自分を信じて疑わない。
「不安があるならそれをひとつずつ解決すればいいだけ。集中して、自信を持って、ゆっくり急げって感じです。僕のなかではもうストーリーができている。高校、プロ、メジャーとつながってきた僕の野球物語の本当の最終章。自分が楽しみ、みんなを楽しませながら、最高のハッピーエンドを迎えるつもりです。今はそれを実現するために動いている。その道のりが楽しくないわけないじゃないですか」
そんな彼に、「今一番欲しいもの」を訊いてみた。
「モノはいらない。金も最低限でいい。そんなものがあっても何も楽しくないことを知っているから。クルマなんて3〜4回乗ったら飽きちゃう。動けば一緒ですよ。それよりも今欲しいのは、さらなる逆境ですね。僕が復帰を目指すと宣言したら、みんな応援してくれるんですよ。そうじゃなくて、無理だって言うアンチの罵倒の声が欲しい。めちゃくちゃ腹立ちますけど、そうすればもっと燃えてくると思うので」
彼の目は、復帰を果たしたその先にも向けられている。
「今まで僕は自分ひとりで楽しんできた気がするんです。これからはみんなで楽しみたい。野球だけでなく、ミュージシャンとか俳優とかどんどん仲間を増やして、みんなが楽しめる“輪”を作りたいですね。もちろんその中心にいるのは、僕。その輪ができたら、永遠に終わりの来ないハッピーエンドの物語ができる気がするんです」