元Jリーガー。現YouTuberの那須大亮。2019年シーズンで20年近い現役時代を終えた。ツイッターやインスタグラムなどに投稿する現役選手は存在するが、現役でYouTuberを名乗る選手はいなかった。しかし、那須はそこに挑戦する。「そこに壁があるからチャレンジする」という行動は、那須大亮という一人のサッカー選手のキャリアを振り返ると、「彼らしい」生き方でもあった。短期連載2回目。
選択肢のなかで難しいほうを選び続けてきた
1981年鹿児島県生まれ。サッカーの名門高校鹿児島実業時代の同級生には松井大輔がいる。高校を卒業後、2000年駒澤大学へ進学。学部は文学部で地理を学んだという。’01年には大学日本一にも輝いた。そして、’02年大学に在籍しながらも横浜Fマリノスとプロ契約を結んだ。
「若い頃は変なプライドがありました。大学で残せた結果とか、今思えばちっちゃい変なプライドですけど。だから、プロの世界へ飛び込んでも、自分は通用する、やれるんだとずっと思っていたんです。でも、まったくメンバーには入れなくて、当時はサテライトチーム(2軍)で練習していたんです。そのときの練習態度は、本当褒められるようなものではなかったですね。ただ、自分の実力がわかっていなかっただけなんですけど。その1年目は本当に時間を無駄にしたなと思います。だから当時の自分に『もっとサッカー頑張れよ』と言ってやりたいですね」
翌’03年には岡田武史氏(元日本代表監督)が監督に就任。守備的MFのポジションだった那須をセンターバックへコンバート。Jリーグの新人王を受賞した那須は、Fマリノスのリーグ2連覇に貢献した。
その後もセンターバックだけでなく、サイドバックなど様々なポジションで起用に応える仕事を見せ続けた。
「いろいろなポジションをやらせてもらっていたんですが、その都度、壁にぶつかっていました。慣れないポジションだし、チームメイトも変わりますし。小さな壁は本当にたくさん存在しました。壁にぶつかって、それをなんとか切り拓いて、ポジションを摑んだり、結果を残せるようになる。でも常に競争はあるので、新しい壁がまた訪れる。そんなふうに繰り返していると、壁って、そんなに悪いものではないなと思えるようになりました。壁にぶつかってもがいているときはそんなこと思わないですけど(笑)。
でも、新しい壁と対峙したとき、過去のもがきが生きて、いいもがきができるんです。ぶつかることや壁の意味を知り、乗り越えるためにどうするのかを様々なアプローチで模索できる。壁にぶつかれば痛みもあります。その時間をどう過ごすのか、痛みながらも有意義な時間にするのか、それとも『しんどい』というだけで無意味な時間にするかによって、その先の人生において雲泥の差になると思います。
壁にぶつかり乗り越える。この繰り返しで、深みのある選手になると思いますし、それが人生にも反映されていく。僕自身、乗り越えるためにもがき、進んだから、今の自分があると思えます。振り返ると乗り越えた壁は、常に『今』に繋がっていると感じられるから。もちろん、壁なんて必要がなければないほうがいいですよ。だけど逃れられるものでもないはず。それはサッカーに限らず、どんな仕事でも同じで。だからこそ、壁とどう向き合い、壁をどう捉え、どう乗り越えていくか。自分なりの乗り越え方を自分のものにしていく感じですね」
那須は現役時代、6つのクラブに在籍している。彼は常に「レギュラーを取りに行く」という前傾姿勢を隠さない。留まることで得る安泰よりも、リスクがあっても挑戦するという風に。
「僕はずっと、日本代表というのを目指していたし、自分の価値を高めたいという想いがありました。だから、常に競争の中へ飛び込まないといけないと考えていたんです。そのため、選択肢のなかで難しいほうを選びたいとは思っていました。もちろん、試合に出られないかもしれないとか、不安もあります。難しいほうを選ぶのがいつも正解とも限らない。ただ、僕の場合は、難しいほうを選択したほうが、その後、より多くのものを得られるという実体験があったので。そういう決断をしてしまうんだと思います」
’12年1シーズンだけ在籍した柏レイソルでは、右サイドバックでレギュラーポジションを獲得していたが、那須自身はセンターバックで勝負したいという想いが強かった。そして、センターバックのレギュラー選手たちとの競争を望んだのだ。
「監督に言いました。『サイドバックではなく、センターバックでやりたい』と。もちろん、レギュラーを外される覚悟はありました。そして、外されました(笑)。一般的にみれば、レギュラーポジションを失うリスクを冒してまで、直訴するのかという声もあるかもしれないけれど、やはりセンターバックで勝負したかったし、そこでまた新たな壁にぶつかり、乗り越えるべきだと思ったんです」
しばらく試合に出られない時間が過ぎたあと、出場機会が訪れた。しかし、それは以前の右サイドバックだった。
「右サイドバックに戻ったときに、プレーでもメンタル的にも新しい発見があったんです。以前は右サイドをやらないという決断をしたわけですが、もう『やるしかない』という状況。覚悟が決まりました。それが、天皇杯優勝に繋がったと思っています」
結果だけを見れば、当時の監督に対して、那須大亮はセンターバックではなく、右サイドバックの選手という認識を変えることはできなかった。直訴しなければ、出場機会を失わずにすんだかもしれない。それでも那須に後悔はない。
「あのまま、右サイドバックを続けていたら、試合に出られなくなってしまったかもしれません。覚悟が定まっていないわけだから。センターバックで試合に出たいともがいた時間があったから、右サイドバックをやり切れた。本当、面白いですよね」
残念ながら日本代表やW杯との縁はなかったけれど、6つのクラブに在籍した那須は、アジア王者も含めて、J1の選手が獲得できるすべてのタイトルを手にしている。その生きざまには熱が溢れている。そして、YouTubeを通しても「チャレンジ」について伝えたいと話す。
「新しいことにチャレンジをする。その大切さをみんなに伝えたい。僕みたいにサッカーだけで生きてきた人間が、YouTubeという新しい場所で、演者として挑戦していく姿を通して、僕のキャラクターが伝わればと思っています。できなかった人が、できるようになるところにストーリーがあると思うんです。だから、僕自身、取り繕わない、嘘偽りのない姿を伝えていければと思っています」
DAISUKE NASU
1981年鹿児島県生まれ。鹿児島実業、駒澤大学を経て2002年に横浜F・マリノス入団、翌’03年に新人王。’04年アテネ五輪に主将として出場。6シーズン在籍した横浜で2度のJリーグ優勝。その後、東京V、ジュビロ磐田、柏レイソル、浦和レッズ、ヴィッセル神戸でプレー。’19年に引退。
那須大亮のYouTubeチャンネル