世界的文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ。作家のドリアン助川さんは言う。ゲーテの言葉は「太陽のように道を照らし、月のように名無き者を慰める」と。雑誌『ゲーテ』2009年12月号に掲載した、今こそ読みたいゲーテの名言を再録する。
女が男のこの上なく美しい半身として与えられもしたように、夜はこの世のなかば、それもこの上なく美しいなかばなのに
――『ゲーテ格言集』より
誤解なきよう。男もまた半身として女に与えられる。西洋人なら誰もが知っているこのベターハーフの発想をたとえに使い、後半の二行でゲーテは思うところを主張している。
「明けない夜はない」という言葉がある。苦しい今を耐えればいつかはいい日がくるといった考えだ。この使い古された標語にけちをつけようとは思わないが、世の中そう単純なものではないこともたいていの人はわかっている。同様に、これはそのわかりやすい教示に対するゲーテ流の異論であり、より示唆に富んだ言葉だ。
ゲーテ曰く、闇と光は対をなして一体、両方を味わうのが一日なのだ。人は笑顔でいられる季節のためだけに生きているのではない。そうではない時も含めて、一刻を、一歩を抱きしめる。生きることの醍醐味はそこにあるのではないかと言いたかったのではないか。
人生がうまくいっている時、運気に乗っている時、人は誰だって笑顔になれる。喝采を浴び、スポットライトに照らされながら道を歩く。その道はきっと確実なものだし、天はおのれのためだけに光を与えてくれていると思えてしまう。
だが、同じ天がある日、急に光を隠すのである。気付けば喝采は他者に送られている。もはやスポットライトも遠く、道すらも失われている。その時人は初めて思うのだ。自信をもって歩んでいたあの日々はいったいなんだったのか? 自分はいったいなにをしていたのかと。
これもまた、生きることだ。その闇の季節を味わうことが、喝采をする側にまわることが、新たな度量を人に与える。そしてもう一度、美しい闇のなかで、その道を切り拓いていこうと決心させる。
この、対で一体という考え方の先には、東洋オリジナルの、悟りと苦悩の世界もある。対なのだから、自らの煩悩や悪行で苦しまない生き物には悟りもない。ただしこれは懊悩を脱して綺麗さっぱり悟りを得るという、時間軸的な流れにのっとった話ではない。一体である以上、一人の人間のなかにいつも双方がある。だからこそ私たちは闇に目を開くことを否定してはならない。
暗黒、苦悩、時には悪。そうした時空に於いても仄かな美を見られる人のみが、感知と創作をするために出現したこの生き物、人類のベターハーフになれるのだろう。
――雑誌『ゲーテ』2009年12月号より
Durian Sukegawa
1962年東京都生まれ。作家、道化師。大学卒業後、放送作家などを経て'94年、バンド「叫ぶ詩人の会」でデビュー。'99年、バンド解散後に渡米し2002年に帰国後、詩や小説を執筆。'15年、著書『あん』が河瀬直美監督によって映画化され大ヒット。『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』『ピンザの島』『新宿の猫』『水辺のブッダ』など著書多数。昨年より明治学院大学国際学部教授に就任。