TRAVEL

2025.10.12

開業から36年、伝説の「アマンダリ」はいまどうなっているのか?

1989年、世界で2番目のアマンとして誕生したバリの「アマンダリ」。ウブドの深い森に誕生したそのリゾートに、世界中の旅人が想い焦がれてきた。贅沢な旅が溢れるいまも、「アマンダリ」の記憶は多くの大人にとってスペシャルだ。そんな伝説的リゾートのいまを、現地リポートでお伝えする。

アマンダリは、“アマンジャンキー”への入口だった

高級リゾートが立ち並び、開発が進み続けるバリ島ウブド。いまや5つ星ホテルが100軒近く存在し、2026年には「キンプトン バリ ウブド」、2027年には「ジ アプルヴァ ケンピンスキー」が開業予定と、外資の進出もまだまだ続く。アートタウンとしても健在。ブティックもスペシャリティコーヒーの店もDJのいるバーも増え、渋滞は日常化している。

そんな賑やかなウブドが黎明期だった1989年に開業したのが「アマンダリ」だ。当時のウブドは素朴な山間の村。野趣溢れる環境で芸術家たちが作品を生み出し、神秘の森に惹かれ移り住む西洋人アーティストもいた。安宿はあったものの、リゾート系は「Kupu Kupu Barong」くらい。その頃のバリのリゾートといえば、クタやヌサドゥアなどの海岸沿いだったが、「アマンダリ」の誕生が内陸ウブドをリゾート地へと導いた。

起点は1970年代初頭に遡る。オーストラリア人の建築家ピーター・ミュラー(1927-2023)が、バリの伝統建築様式を取り入れたリゾートを構想したが、実現しないまま年月が過ぎていた。そのうち彼の友人がウブドにヴィラを建てようとして、のちにリゾート計画へと移行。そして彼らが出会ったのが、アマン創業者のエイドリアン・ゼッカだ。

エイドリアンは1988年開業のプーケット「アマンプリ」に続く2軒目のアマンを思惑している頃で、彼はピーターの構想に天才的な才能を見出し、「アマンダリ」の実現へと動き出す。

場所はジャングルに囲まれたアユン川渓谷の上。積もり積もった構想を大放出させるように、ピーターはわずか8日で「アマンダリ」の設計図を完成させた。60歳を過ぎた頃で、既に十分なキャリアを積んでいた建築家が夢みたのは、ウブドにバリの原風景を反映した村のようなリゾートを造ることだった。

結果、「アマンダリ」は伝説となった。いわゆる“アマンジャンキー”と呼ばれるアマンの熱烈なファンを生み出す、いまでいう“沼”の入口だ。

かくいう筆者も憧れがつのって16年前に滞在。20代の背伸びしたひとり旅で、陶酔した。そして2025年に再訪。今回も同じような時間を得られるのか? 何が変わって何が変わっていないのか? その答えを探るため、ウブドに向かった。

大樹が点在し、森の中に隠れているような「アマンダリ」。

1989年の開業時、宣伝は海外へのポストカードだった

再訪と言っても、正直、覚えているのは主に感情。例えば、狭い路地を進みセキュリティチェックを抜け、その先もまた狭い路地が続き高揚した記憶がある。東京で俗にまみれてきた頃で、田舎返りした感覚となった。

16年ぶりに出迎えてくれたのは、バリの正装であるクバヤ(ブラウスのような上着)を着た女性スタッフ。袖のレースが美しく、クバヤが制服なのは開業当初から変わっていない。

そのうち、雰囲気からしてベテランのスタッフにも数名会うことができた。フロントの女性は「アマンダリ」で働いて34年。驚くほどの勤務年数だが、彼女が言うには、30年以上ここに勤めているスタッフは20人はいるとのこと。コロナ禍で早期退職をリクエストした者もいたから、2019年まではさらにベテランが多かったとか。

「ここで働くことは家族と一緒にいるようなものです」と、彼女が言う。スタッフの98%がバリニーズで、うち60%が近隣の村出身。多くが古くからの知り合いで、例えば中庭で子供たちにバリ舞踊を教える先生も35年間「アマンダリ」に通っている。午後に子供たちが踊る姿に覚えがある人も多いだろう。高級リゾートにして、日本の地方の公民館で子供たちに伝統芸能を習わせるような一面ももつのだ。

「アマンダリ」でバリ舞踊を習うことは、村の少女たちが大人になる前に通る道。

最も勤務年数の長いスタッフは、開業前にロビーを建てた元大工。彼はやがて「アマンダリ」のトレッキングガイドやドライバーとなり、1年前に定年退職したが、あまりに評判がいいため再雇用となった。

34年勤務の彼女が働きだした開業当初、まだウブドの道はでこぼこ。「アマンダリ」の送迎車のみ座席に真っ白なカバーがかかっていたので、村人たちはそのクルマを目印にリゾートを認知していたとか。では、当時泊まっていたゲストとは?

「最大のお客さまはアメリカ、次に英国はじめ欧州からでした。1年早く開業したアマンプリに滞在した方たちが、アマンダリに来てくれたのです。開業前、アマンプリに泊まった各国のゲストに、アマンの2軒目のリゾートがバリにできるとポストカードで案内を送っていたと聞きました。そのカードを見たゲストから電話やFAXで予約が入り、彼らが泊まったあとに帰国すると、口コミが広まったのです」

SNSはおろか宣伝活動も旅行会社との連携も何もなく、「アマンダリ」は噂になった。NYやロンドンといった大都会の上流層が、そこがいかに神秘的でお忍びの場所か伝える。しかし聞く者は想像が及ばず、その目で見届ける欲求に駆られウブドに向かった。

2000年代、JALに乗ってアマンに泊まる日本人が急増

1993年までにアマンは5軒に増え、1990年代半ばには“アマンジャンキー”という言葉が生まれていた。特に1992年にバリの海沿いに「アマヌサ」(現在はアマン ヴィラ ヌサドゥア)と「アマンキラ」が誕生したことで、バリ内でアマンホッピングをする人が絶えず、山の「アマンダリ」は外せなかった。

また、アマンの成長は海外のラグジュアリートラベル誌の台頭と重なり、世界の名だたる雑誌が一斉にとりあげた。1990年代、旅のトレンドと憧れは紙の雑誌に詰まっていた。同時期、ジミー・カーター元米国大統領やミック・ジャガー夫妻はじめ、多くの著名人も「アマンダリ」に滞在。日本人が増え始めたのはその少しあとだと、前述の女性スタッフが言う。

「日本からのゲストが急増したのは2000年以降です。その頃、日本航空(JAL)がバリへの直行便を毎日就航させたことが大きな影響となりました。私たちは日本航空とよい関係を築き、機内誌でもアマンダリを掲載してくれたのです」(※日本航空は2002年4月18日より成田=デンパサール間直行便デイリー運航開始)

2000年には『CREA Due TRAVELLER』10月発売号で「アマンリゾーツのすべて」と1冊丸ごと特集が組まれるなど、日本の雑誌での露出も増加。以降、日本はアメリカと欧州に次ぐ大きなマーケットとなったが、近年は中国や韓国のゲストがより増えているという。

そんな世界中からゲストが訪れる「アマンダリ」では、歴史が客層を左右する。アメリカは常にトップのマーケットだが、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ以降はしばらく激減し、日本人が最も多い時期もあったとか。

2020年以降のコロナ禍では休業となり、その頃ゲストは皆無に。それでも、清掃や建物の修復作業を続けていた。コロナ禍の困難な状況では人員削減をすぐに決めるホテルもあったが、ここでは経営陣がスタッフと話し合い、希望のままに最善の方法で対処をした。「その人を大切にする姿勢が、みんながアマンダリで長く働き続けたい理由だと思います」と、30年以上勤務する女性は言う。

ハウスキーピングもベテラン揃い。

客室の変化はドライヤーが最新型になったくらい

時間がとまったような小さな村に、31のヴィラが点在する。すべての建物は、36年間の足跡が変わらないように、同じ素材で部分的に修復され、増築はない。客室の扉は精巧な木彫りで、呼び鈴代わりに「クルクル」というバリ伝統の木の鳴物がかけられている。

「アマンダリ」のシンボル的存在である虎のキーホルダーがつく鍵。

ルームキーをカードにすることもなく、手のひらに馴染む木彫りの虎のキーホルダーがついた鍵のまま。虎を揺らしながら鍵をひねり中に入ると、すぐに唯一無二の空間に惹き込まれた。建築家の渇望が生んだ洗練か、稀に見る美しい部屋だ。

天然資材以外のものがここまで少ない客室は珍しい。開業当初からテレビを置かず、タッチパネルやスピーカーもない。贅を尽くしたバリの伝統家屋に馴染まないものは置かないとばかりに、余計なものが一切ない。泊まったヴィラは絵もカーテンもかけず、引き戸の内側に外の森と繋がるような自然が描かれていた。引き戸を閉めれば暗闇のなかに絵の森がぼんやりと浮かぶ。

谷の景色と調和する「ヴァレー スイート」(220㎡)。

西洋人建築家のバリへの憧れと尊敬みたいなものが、36年間守られていると客室で感じた。多くのリゾートが「アマンダリ」のヴィラを参考にしたはず。しかし、シンプルにして決して真似が出来ない。誕生まで十数年、したためたものが違うと感じさせる。

そして、いま逆に新鮮なのが、アメニティが少ないこと。寝室で目についたのは椰子の葉の内輪とバリの布製地図だけ。スピーカーは置かないが、野鳥がさえずりカエルの合唱が響く。

「アマンダリ」は、何か必要なものがあれば個別に渡すパーソナルなサービスで、設えをミニマムに整えていた。バスアメニティは歯ブラシと歯磨き粉くらい。シャンプーなどは昔から陶器のボトルに詰めたもので、プラスチックのミニボトルを採用したことはない。簡素さは昔からで、大きく変わった点はドライヤーが最新型になったことくらいだとか。

50回以上滞在したリピーターもいる

ライブラリーもまったく変わらないが、本を読んだり借りるゲストは少なくなったという。谷底にいる石神の虎も、苔むしながら健在。いまも多くのゲストが虎に会いに200段以上の階段を降りる。

石神の虎はインドの高僧による伝承が起源。

リゾート遺産とも呼びたくなるインフィニティプールも健在。「アマンダリ」の開業後、インフィニティプールの存在が世界中に広まっていった。

「アマンダリ」の代名詞であり続けるインフィニティプール。

プールを見下ろすレストランも同じ佇まいで、16年前、そこの角席で40歳くらいの日本人男性がひとりで食事をとっていた光景を覚えている。ガムランが響くなか、「アマンはひとりで楽しんでもいいんだ」と、情景になじむファンを前に思った。

アユン川渓谷を一望するレストラン。

レストランもヴィラも、「アランアラン」と呼ばれるバリ伝統の茅葺き屋根をのせ、草は5〜6年で交換する。昔はバリ産の草を使っていたが、他のリゾートも同じ草を使うようになったことや気候変動が影響し、バリ産が手に入らなくなった。いまは他の島から取り寄せているが、バリ産の質には及ばない。肥料を使い早く成長させた草は、反対に耐年数は短いという。「アランアラン」はバリ建築の象徴なので、今後、別の素材を間に挟むなどして防水効果を高める課題に向き合っている。

その他ディテールを保つためにも随時メンテナンスが必要となるが、大工が手作業で造った建物だから修復も手作業で地道だ。時には当時と同じ特別なナイフを用意する。

そのようにオリジナルのキープに努めるのは、世界中に「アマンダリ」の空間を愛するリピーターがいるから。20回以上のリピーターは少なくなく、最多で50回以上。時が流れ、高齢で来られなくなったゲストからは、「写真を送ってほしい」とリクエストが入ることもある。

“アマンマジック”も健在

最後に、変わらないことといえば、“アマンマジック”だ。それはアマンの魔法のようなホスピタリティを称えるためにゲストから生まれた言葉。

例えば、今回も40分ラウンジでお茶を飲んでいる間に、客室がすっかり掃除されていた。この早業に驚くゲストが多い。カメラでチェックしているわけではなく、スタッフ間でゲストの動向をシェアし、ハウスキーピングに伝えているという。

嗜好についても同じで、初日の夜に「バリ産のアボカドが美味しくて好き」と話せば、別の担当が翌日にアボカドのスライスを昼食に添えてくれた。ライムが欲しいとも知っていた。最終日に朝食を食べそびれた際には、「11時に朝食でも、早めのランチを提供することもできます」と、即座に提案された。ルールよりも柔軟さを優先しているのだ。

歯切れのよいバリ産のアボカドをぜひ試してほしい。

ホスピタリティについては、やはりベテランの存在が大きい。なぜなら彼ら自身が「アマンダリ」に大切にされ、ゲストに返してくれるから。ある長年のスタッフは、父親の誕生日に「お父さんを食事に招待したらどうか?」と総支配人に提案され、家族でお祝いをした思い出ももつ。ファミリー的な温かな風潮は続いているという。だからか、ここのスタッフには安心感や穏やかさが漂っている。それもまた、変わらないことのひとつだ。

開業から36年。全世界36軒へと広がったアマンのなかで、「アマンダリ」はいまなお不変の美を宿す。目覚ましく移ろう世情のなかのオアシスのような存在。ものごとが進化したいまこそ、リゾートでの恍惚の原点みたいなものを感じに訪れてほしい。

さよならの瞬間まで温かい。

問い合わせ
Amandari https://www.aman.com/amandari

TEXT=大石智子

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