2009年から’15年の約6年半、のべ500日以上をかけて、47都道府県、2000近くの場所を訪れた中田英寿。世界に誇る日本の伝統・文化・農業・ものづくりに触れ、さまざまなものを学んだ中田が、再び旅に出た。
厳選されたみかんを絞った極上ジュース
和歌山県有田市といえば、日本一のみかんの産地だ。この地域で生産されるみかんは、約8万トン。全国の生産量の1割ほどを占めるという。クルマで訪ねると、見渡す限りの山々にみかんの木が植えられている。道の駅などにも、みかんの加工品がズラリ。そのなかでひと際目を引くのが、丸っこいボトルに入れられた「飲むみかん」というジュースだ。
なにしろ値段が他のみかんジュースの倍くらいする。気になって飲んでみると、たしかにおいしい。薄皮のないみかんをそのまま口の中に放り込んだような、フレッシュで、濃厚で、それでいて後味もさっぱりとした味わい。これこそ、中田英寿がいろいろなジュースを飲んだなかで、「他とはまったく違った」と絶賛する早和果樹園のみかんジュースだ。
「この地域は傾斜地ばかりで稲作づくりに向かなかったんです。一説によると、400年以上前からみかんを栽培してきたと言われています。むかしは、どんな家にも冬のこたつの上にはみかんがあったものです。昭和40年代後半から50年代のはじめにかけては、全国で約360万トン生産されていました。有田にも5000軒のみかん農家があったんです。でもその後、つくりすぎで価格が下がり、海外からさまざまな柑橘が輸入されるようになるとどんどん生産量が落ちて、現在は70〜80万トン。全盛期の2割ほどになっています」(早和果樹園・秋竹新吾会長)
そんな“みかん受難”の時代、1979年に地域で先進的な7軒の農家が集まり、早和果樹園の前身「早和共撰組合」が立ち上がった。
「最初は冬の果物だったみかんを夏にも食べてもらおうとハウス栽培からスタートしました。ハウス栽培は経費も手間もかかるんですが、そのぶん高く売れる。かなりの試行錯誤がありましたが、贈答用として注目されるようになり、経営が安定し始めたんです」
2000年には、有限会社早和果樹園として法人化。2005年には株式会社に組織変更。そういった流れのなかで生まれたのが、極上のみかんジュース「味こいしぼり」だった。
「最初にジュースをやると言ったときはみんなから反対されました。海外の安い濃縮還元ジュースには太刀打ちできないと。でも自分たちがつくるみかんの味には絶対の自信がありました。初めてつくったとき百貨店の販売担当の方に飲んでもらったら、『こんなジュースは飲んだことがない。強気の値段でいきましょう』と言われて、720mlを1260円で売り出したんです。酒より高いジュースが売れるのかなと半信半疑でしたが、試飲販売をするとどんどん買っていってもらえる。最初は東京で火がつき、徐々に地元でも売れるようになっていきました」
中田は「飲むみかん」よりもさらに濃厚な商品「味まろしぼり」を飲んでみて、そのおいしさを再確認。
「やっぱりおいしい。濃厚なだけでなく甘さと酸味のバランスが絶妙です」(中田)
「普通は売り物にならない果実をジュースにするんですが、私たちの場合、いいみかんだけを選んで絞っているんです。皮をむいてから絞ったストレートジュースだから、この味になるんです」(秋竹会長)
早和果樹園では、毎年1つは新製品をつくるということで、ショップにはさまざまな商品が並んでいた。
「ここ数年はジュースの残渣を再利用しようということで、皮を漢方の陳皮として利用したり、薄皮をつかい食物繊維を豊富に含んだスムージーなどを販売したりしています。こうやって加工品で利益をあげて、それを1次産業であるみかん栽培にいかしていく。そういういいサイクルが出来あがっています」
不思議なことに早和果樹園のジュースを飲むと、みかんが食べたくなる。しゃれた柑橘もいいけれど、やはり日本人は温州みかんかな。そんなことを思わせてくれる和歌山での出会いだった。
「に・ほ・ん・も・の」とは
2009年に沖縄をスタートし、2016年に北海道でゴールするまで6年半、延べ500日以上、走行距離は20万km近くに及んだ日本文化再発見プロジェクト。"にほん”の”ほんもの"を多くの人に知ってもらうきっかけをつくり、新たな価値を見出すことにより、文化の継承・発展を促すことを目的とする。中田英寿が出会った日本の文化・伝統・農業・ものづくりはウェブサイトに記録。現在は英語化され、世界にも発信されている。2018年には書籍化。この本も英語、中国語、タイ語などに翻訳される予定だ。
https://nihonmono.jp/