織田信長は、日本の歴史上において極めて特異な人物だった。だから、信長と出会った多くの人が、その印象をさまざまな形で遺しており、その残滓(ざんし)は、四百年という長い時を経て現代にまで漂ってくる。信長を彼の同時代人がどう見ていたか。時の流れを遡り、断片的に伝えられる「生身の」信長の姿をつなぎ合わせ、信長とは何者だったかを再考する。
第二十五章 森 成利
天正十年(1582)六月二日早暁(そうぎょう)のこと。寂(せき)とした本能寺の寝所に、遠くで人の騒ぐ声が聞こえた。早起きの信長は、小姓相手に朝の身支度でもしていたのだろう。『信長公記』は、信長も小姓も「当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候と、おぼしめされ候」と記している。誰かが喧嘩でも始めたのだろう、と。
当時の本能寺は寺域だけで一町(約110m)四方、周囲に三十余の子院を抱えていた。信長が度々京都での宿所としていたから、堀を巡らせ塀を築き固く防御されていた。この朝の信長の警護は三十人ばかりの小姓だけだったが、門前の騒ぎなど脅威には思わなかったのだ。
ところが、騒ぎの音は一向に已(や)まない。やがて鬨(とき)の声まで上がり、パンパンと栗の爆ぜるような音が聞こえた。信長の耳に染み付いた音だ。銃弾が打ち込まれたのだ。喧嘩ではない。それは紛れもない戦場の音だった。
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第二十六章 明智光秀
本能寺を包囲した明智光秀の兵は、間を置かずに信長のいる本殿へと討ち入って来る。勝ち負けではなく、光秀の目的はただ信長の死だった。
なぜ光秀は謀反(むほん)したか。当時から今日にいたるまで、さまざまな説が取り沙汰されている。怨恨(えんこん)とか、野望とか、義憤に駆られたとか。本当のところはわからない。当の光秀にしても案外、ひとつの理由を挙げることはできないのではないか。
信長は光秀の才能を高く評価し、政権内でも高い地位を与えた。信長が光秀の働きを激賞した文書も残っている。信長が大軍を率いた光秀の動きを警戒していないことから考えても、ふたりの間に不和はなかった。確かなのは、ふたりが急成長する組織のトップと、その右腕的関係にあったということだ。常に尋常ならざる過大な成果を求める上司と、その成果を出し続ける有能な部下。そういう上司と部下の間には複雑な感情が渦巻くものだ。尊敬し愛情さえ感じる相手に、同時に恨みや反感を抱いていることも珍しくはない。
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最終章 庶民
現代風の言葉を使えば、信長は現実主義者だった。現実主義の元祖マキャベリが没したのは信長の生まれる7年前だが、もちろんマキャベリの影響を受けたわけではない。信長の現実主義は、ある意味で、マキャベリより徹底的だった。マキャベリは当時の多くの欧州人と同様に神を信じていたようだが、信長は神も仏も信じなかった。この時代の日本において、それはかなり異質な生き方だった。
『信長公記』を読むと、当時の人々がいかに神仏や天道を心の拠り所にしていたかがよくわかる。人の運命を左右するのは天の理であり、不慮の死や災難の原因はその人の過去の行いのせいであるという記述がいたるところで繰り返されている。一向宗を始めとする宗教勢力が戦国武将を悩ませたのは周知だが、その戦国武将自身も神仏の加護を祈るのが普通だった。上杉謙信は毘沙門天(びしゃもんてん)を熱心に信仰したし、武田信玄の信玄はそもそも出家して得た法名(ほうみょう)だった。
彼らが神仏や天道に頼ったのは、人が理由を求める生き物だからだ。生きている限り死は隣にある。今も昔もそれは同じだけれど、彼らが生きたのは、それを朝に夕に意識せずにはいられない世界だ。世の中には死があふれていた。その死の説明が必要だった。理由がわからなければ、避けようがないからだ。死が日常の世に生きた彼らにとって、信心は救いだった。
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Takuji Ishikawa
1961年茨城県生まれ。文筆家。不世出の天才の奮闘を描いた『奇跡のリンゴ』『天才シェフの絶対温度』『茶色のシマウマ、世界を変える』などの著作がある。織田信長という日本史上でも希有な人物を、ノンフィクションの手法でリアルに現代に蘇らせることを目論む。