2023年9月、ニューヨーク州に「獺祭」の蔵が完成。アメリカに日本酒の新たなムーブメントを起こすべく誕生したDASSAI BLUE SAKE BREWERYを訪れた。【特集 ニッポンのSAKE】
NY酒蔵完成! 会長自ら移住し、陣頭指揮
「青は藍より出でて藍より青し」。この諺(ことわざ)は藍で染めた青は原料の藍よりも青いことから、弟子が師を越えるたとえだ。
2023年9月、アメリカ、ニューヨーク州にオープンした日本酒「獺祭」の酒蔵、DASSAI BLUE SAKE BREWERY。日本でつくられるオリジナルの「獺祭」を超えるものを目指すという想いから、新ブランドは「DASSAI BLUE」と名付けられた。フルーティーで、コクと深みが感じられる味わいは、早くも現地で人気を集めている。
「日本とは、水も違えば環境も違います。『獺祭』を基盤としながらも、また違った酒ができていくでしょう。ここで生まれた酒が、アメリカの地で発展していけば、それは『獺祭』を超えた新しい酒になるんです」
ニューヨークに酒蔵をつくり、新たな「獺祭」を生みだす。このミッションのため、2023年4月からアメリカに移住した旭酒造・桜井博志会長はそう語る。
マンハッタンから130km、ハドソン川に沿って北上し、ハイドパークより少し手前でクルマを止めれば、桜井会長がすべてを懸けるその蔵は見えてくる。
「日本酒を本当の意味で国際化するには、海外でつくらなければいけないとずっと考えていました。多くのアメリカ人にとって、日本酒はたまに日本食レストランに行った際に嗜む、ミステリアスな存在。まだまだ酒としては『よそ者』だと感じています。けれどこの地で日本酒をつくり、土地に根差したものにしていけば、もっとアメリカで愛されて、日本酒そのものが成長できるはず」
麹をつくり、もろみを管理し、酒を搾る、設備は日本から運びこみ、蔵人も山口から呼び寄せた。蔵内はまるで日本かと見紛うほど。一方で現在、原料である酒米の山田錦の栽培をアーカンソー州で始めている。日本の山田錦だけでなく、アメリカの地で穫れた山田錦も使用していく。
「例えば山梨のワインはすごく地域に根ざしていて、ワインなのに一升瓶に入れられていたこともありました。土地で大事に育てていくうちに、国際的に評価されるワインも生まれた。日本酒もニューヨークでだって、同じことができると思い、現地の米の生産に挑戦しています」
高品質でハイエンドなものを異国の地でつくり続ける
現在、海外に輸出される日本酒の15%が「獺祭」だといわれており、世界でその人気は不動のものだ。それゆえ旭酒造全体の売り上げは43%が海外への輸出からなる。しかし一方、アメリカ全体のアルコール消費の市場規模では日本酒はわずか0.2%。ここに大きなチャンスがあると桜井会長は目論む。
もちろん、アメリカにもすでにいくつか日本から進出した酒蔵はある。しかしその多くが、受け入れられやすいようリーズナブルなものをつくっているという。
「短期間でみれば安価なもののほうがうまくいきやすいでしょう。しかし日本酒のファンをつくっていくことが、長期的な成功のためには欠かせません。そのためには、ハイエンドなものをつくって売ること。その最初を私たちがやればいいんです」
高品質でハイエンドなものを異国の地でつくり続ける。そのために自身もアメリカに住むことを決めたという。
「2023年9月のオープンまで、酒づくりは何度も試行錯誤を続けました。新しい酒でありながらも、『獺祭』の水準は超えないといけません。実は7タンク分(1タンクは四合瓶720mlで5000本相当)も失敗してしまいました。皆、頭を抱えてましたよ。
彼らはつくっている途中段階で、その酒がうまくいっていないことに気がついているはずです。けれど『環境が違うから仕方ない』『会長も妥協して合格点を出すかもしれない』と考えたかもしれません。もちろんある程度目標を下げれば失敗にはなりません。逆に高いところを狙えば必ず失敗する。だから失敗していいんです。失敗を乗り越えなくては飛躍はありません」
妥協は決して許さない。失敗は不可欠と考え、従業員たちの背中を押し、ともに乗り越えていく。そのために桜井会長はこの地にやってきたのだ。
今ここで評価されれば必然的に世界が見えてくる
酒づくり以外でもオープンまではイバラの道だった。2016年に始まった蔵の建設計画はパンデミックにより延期を繰り返し、もともと30億円だった投資額が、80億円に膨れ上がった。環境保護も考えて、米を洗った水を浄化する排水処理施設の建設も行い、当初よりさらに10億円かかった。円安も向かい風になったが、それでも「アメリカに酒蔵をつくる」ことを諦めなかった。旭酒造の3代目として、これまでさまざまな困難に立ち向かってきたゆえの胆力だ。
「34歳で3代目になった際は、日本酒の冬の時代、売り上げはよい時の3分の1まで減っていました。山口の酒蔵のなかでも、売り上げが少なかったんです」
うまくいっていないなら、変革しなければならない。そう考えた桜井会長は約30年前、それまでつくっていた安価な酒ではなく、純米大吟醸に挑戦することを決めた。そのなかで杜氏の経験と勘に頼ってブラックボックス化していた酒づくりと向き合い、感覚と数値を結びつけていった。そうして生まれた「獺祭」だからこそ、アメリカの土地でも、失敗を乗り越え、よりよい酒を目指せるのだ。
「現在の4代目は会社全体を見なければならず、アメリカのこの挑戦にかかりっきりになっているわけにはいきません。そして私は、これまでたくさん失敗をしてきて、失敗には慣れています。だからこのリスキーな仕事は、私がやるしかない。
私はそもそも英語も話せませんし、クルマの左ハンドルにも慣れないし、正直戸惑うことばかりです。72歳で、そんな挑戦しなくてもいいじゃない、そう日本では言われましたよ(笑)。でも、ただ毎日やりたいようにやって、少しでもよい酒をつくりたい、そういうふうに思っていたら、ここにたどりついただけ」
アメリカの次は、ヨーロッパに蔵をつくることも考えているのか、と問うと、しばらく考えてからこう答えを絞りだした。
「もしアメリカで私たちの酒が評価されれば、必然的にヨーロッパにも広がるでしょう。だから、まずは目の前の酒を丁寧に一生懸命つくるだけです」
そう話している間にも、蔵の近くを訪れていた地元の人が、珍しそうに蔵を覗く。「一生懸命つくるだけ」と言ったばかりの桜井会長だったが、その様子を眺めながら、早くも次の一手を考えているかのように不敵に微笑んでいた。
蔵の歴史をつくるオープンの日の記念式典
去る2023年9月23日、ニューヨークの北、ハイドパークにある料理専門大学、カリナリー・インスティテュート・オブ・アメリカ(CIA)の敷地内にオープンした「DASSAI BLUE SAKE BREWERY」が、そのお披露目のための記念式典を開催。総勢450名、現地はもちろん、日本からもゲストが詰めかけた。
「日本酒を一過性のブームではなく、食文化として根づかせたい」と、桜井会長はこれまでの苦労とそして今後の抱負を、桜井一宏社長とともに熱く語った。
また、翌日、日本から参加した100人ほどのゲストは、ヤンキースタジアムでMLB観戦。そこで目にしたのは、バックスクリーンの「獺祭 Blue」のロゴ。浮かび上がるたびに、大きな歓声が上がり盛り上がった。
この記事はGOETHE 2024年1月号「総力特集: ニッポンのSAKE」に掲載。▶︎▶︎購入はこちら ▶︎▶︎特集のみ購入(¥499)はこちら