ドイツの名門A. ランゲ&ゾーネの時計を所有する作家の吉田修一氏。腕時計との付き合い方には、ちょっとしたこだわりがある。全3回連載の第1話。
初めて腕時計を巻いた時、自分の時間というものを意識した
『つくづく不思議な光景だと思う。(中略)ちょうどベランダの真下に横断歩道があり、信号が赤になれば、走ってきた車は停止線できちんと停まる。その後ろから走ってきた車も、前の車との距離を計り、ぶつからない程度の位置で、そのまた後ろからきたのも、同じような間隔を空けて停車する。そして信号が青になれば、先頭の車がゆっくりと走り出し、二台目、三台目が安全な間隔を取りつつ、引っ張られるようにあとに続く』
小説『パレード』の冒頭の一説だが、著者の吉田修一氏はこれと同じ光景を腕時計のなかに見る。
「こういった人や物の規則的な動きって、なんだか時計に似ていませんか? 僕はムーブメントの動きを、ボーっと見ているのが好きなんです」
吉田氏が初めて自分の時計を持ったのは、高校の入学祝いとしてプレゼントされた時だった。
「革ベルトやダイヤルを触りながら、飽きずに眺めていました。それに、腕時計を巻いて初めて“時間”というものを意識した。自分の腕時計がそのまま自分の時間というか、大袈裟に言えば形而上的な意味での時間の感覚を味わったような気がします」
時計は時刻を知るためのプロダクトではなく、時間という存在について考えるきっかけとなった。だから今でも、腕時計との付き合い方は少し独特だ。
「腕時計はほとんどつけません。家の中で触れたり、眺めたりしています。掌に置いた時の重みが好きで、執筆中に休憩する時に触っている。リラックスするのかな。ゼンマイを巻き上げたり、針を動かしたりもしますが、正しい時間に針を合わせることはあまりないですね。腕時計は時刻を知るためのものではないし、それはスマートフォンでいい。
ということは、僕にとって腕時計は嗜好品なのかな。紙の地図を眺めるのも好きなんですが、それに近い感覚。想像力を搔き立てたり、物語があるものが好きなのでしょうね」
腕時計をつけるとスイッチが入るというビジネスパーソンは少なくないが、吉田氏の場合は逆。腕時計に触れることがリラックスになり、仕事モードを切るスイッチになる。しかしその一方で腕時計は、吉田氏の創作の幅を広げるものでもある。
「『春、バーニーズで』という短編は、腕時計を扱った作品。修学旅行でなくした時計を日光に捜しに行く話は、まさに高校入学祝いでもらった初めての腕時計をなくした僕自身の体験が元になっています。当時は別にどうとも思いませんでしたが、時間が経つにつれて、最初の時計をなくしてしまった残念な気持ちが湧いてきた。だからあの腕時計の思い出を小説にすることは、ひとつの供養だったのかもしれません」
そんな吉田氏は今、A. ランゲ&ゾーネを愛用している。
「ブランドを知ったきっかけは『ランゲ1』で、その非対称のレイアウトに惹かれました。また、腕時計に詳しい友人から教えてもらっているうちに、“ハニーゴールド”にも興味を持ちました。色合いも好きですし、ゴールドなのに傷がつきにくいという特性も面白いですよね」
ハニーゴールドとは、A. ランゲ&ゾーネの独自素材で、特殊な配合と熱処理によって硬く、耐傷性に優れる。この素材は特別モデルのみに使用されるため入手は困難だが、吉田氏は縁あって限定モデルの「1815」を手に入れた。
「見た目がなくしてしまった最初の腕時計に似ているので、ストラップも当時の雰囲気に合わせて変えました」
吉田氏お気に入りの1本だが、この時計と外出する機会はほぼない。でも、これが吉田氏と腕時計との適切な距離感なのだ。
腕元で存在感を放つ、至高のマスターピース
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A. ランゲ&ゾーネ TEL:0120-23-1845