非情の山「K2」。未踏の西壁からアタック中だった登山家・平出和也氏、中島健郎氏が滑落、2024年7月30日、家族同意のもと救助活動が打ち切られた。K2に抱かれ永遠の眠りについた平出和也氏は、かつてGOETHE2021年 4 月号「仕事人の勝負アイテム」特集にて、自身にとっての「山の地図」という存在についてインタビューに答えている。そこで語られた前人未踏のルートへの思いを、今振り返る。
「自分で見て確かめたいから前人未踏のルートに挑む」
一年に一回は手元にある世界の山の地図を開く。
「地図を見れば、これまで踏破してきたことなど、20年近く前の記憶が鮮明に蘇ります」
登山界で最高の栄誉とされるピオレドール賞を日本人で最多の3度受賞しているアルパインクライマーの平出和也氏。大学2年から始まる登山人生において、地図は大きな意味を持つ。
「若い頃は、誰かに連れていってもらうような登山が多く、チャンスを与えてもらう立場でした。でも20代半ば、自分はどんな登山家になりたいのか考え始めた。僕はもともと陸上競技をやっていたのですが、誰かと競うのではなく、自分でスタートとゴールを見つけたいと思って登山を始めたんです。だから一番になるための登山はしたくなかった。山に順位はないし、メダルもない。課題を見つけて、それを克服することで自分が成長できるんじゃないかと思ったんです。それで2002年の夏、パキスタンのカラコルム山脈に行き、地図を片手にどんな登山をしようかと考えることにしました」
その時作った地図がある。何枚もの地図を貼りあわせ、そのあちこちに先人たちがたどったルートを書きこみ、その地図を片手に現地を歩いた。
「地図を見ながら現地を歩くと、誰も踏み入っていない空白部分が目に留まりました。なぜ空白なのか……。誰も気づいていないからなのか、気づいていてもよほど困難なルートなのか。ここなら自分の足跡が道になる。自分にしかできない登山をしたいと強く思うようになりました」
成功した登山ほど反省が必要
未踏のルートに挑むことには、当然リスクも伴う。平出氏にも苦い経験がある。若い時は、体力任せで登ってしまい、’05年、インドのシブリン峰に挑んだ時は、9合目でリスクに気がついたにもかかわらず、そのまま登頂。しかし下山の時に凍傷になってしまい、足の指の一部を失ってしまった。
「登山は片道切符ではない。登頂だけを目指すと、痛い目にあうんです。それ以来、意味のないリスクを負うことはやめました。ひとつしかない生命を守るために最善の方法を考えるようにしています」
楽しい思い出も、苦しい思い出も、地図を見ると鮮明に蘇ってくると平出氏。
「成功した登山ほど、反省が必要です。失敗した時は原因がわかりやすい。でも成功したからといって反省点がないわけではない。“よかったよかった”で終わらせずに、次に向けての課題や改善すべき点を探すようにしています」
現在41歳。体力と経験が必要な登山家としてのピークを迎えている。毎日20キロ走って、1時間泳いでいても、体力が落ちてきたことを実感する。
「残りの人生であと何本登れるのだろうと考えることもあります。でも地図を眺めているうちに、以前諦めたことが今ならできるんじゃないかって思えて、『よし、確かめに行こう』と思うこともある。何度見ても好奇心が湧いてくるんです。答えがないなら、見つけに行きたい。やっぱり山には、僕をワクワクさせてくれるものがあります」
長年の登山で学んだことは、実際にやってみることの大切さ。それが成功しても失敗しても、新たな自分に出会い、必ず次につながると言う。
「自分の目で見て確かめないと本当のことはわからない。今ならGoogle Earthで現地の様子を確認することもできますが、地図を見て、そこを歩いて感じられることは、まるで別物です。世界にはまだまだ知らないことがたくさんあるんですよ」
HIRAIDE’S TURNING POINT
23歳 手製の地図を持ってパキスタンへカラコルム山脈未踏ルートを探る。
24歳 石井スポーツ所属の登山家として活動を始める。
29歳 インドのカメット峰(7756m)で、未踏の南東壁から登頂し、日本人初のピオレドール賞を受賞。
34歳 山岳カメラマンとして三浦雄一郎氏の80歳でのエベレスト登頂を撮影する。