PERSON

2023.10.24

絶対王者・羽生善治が27年ぶりの無冠に終わった日、将棋記者は何を見たのか?

対局のネット中継が普及し、棋士たちの熱き戦いを多くの人が知るようになった。一方で、棋界を10年以上取材してきた新聞記者・村瀬信也氏は、カメラに映らない光景や対局室のマイクが拾わない言葉から、彼らが胸に秘める闘志や信念に接してきたと語る。将棋界を牽引する7名の棋士が現在の活躍に至る軌跡を、2022年刊の村瀬氏の著書『将棋記者が迫る 棋士の勝負哲学』より振り返る。第3回 羽生善治【藤井聡太ら他棋士の記事を読む】※情報は2022年1月26日発売時のもの

和服に込められた決意表明

「また、和服を着て対局する可能性はありますか」

すぐ近くにいる他社の記者がそう尋ねた瞬間、私はボールペンを動かす手を止め、羽生善治の顔を見つめた。

2019年3月2日。前日に静岡でA級順位戦最終局を戦った羽生は、東京・有楽町で開かれた鹿児島の伝統工芸品「本場大島紬(ほんばおおしまつむぎ)」の贈呈イベントに出席した。鹿児島とは、羽生の祖父の出身が種子島という縁がある。七つのタイトルの永世称号の資格を得る「永世七冠」を達成した地も鹿児島だった。

この日、贈られたのは、共に絹100%で織られた緑の着物と深緑の羽織。鹿児島県の知事が羽織を着せると、羽生は「軽いですね」と驚きの声を上げた。冒頭の質問は、その後の囲み取材で飛び出した。

棋士は普段の対局にはスーツで臨むが、タイトル戦の際は和服を着るのが慣例だ。その記者は単に、「今後の対局で和服を着る機会があるか」を尋ねたかったのだろう。だが、私には「また、タイトル戦に出る可能性がありますか」という問いと同義に聞こえた。

前年の暮れに無冠になっていた羽生は、少し考えた後にこう答えた。

「次回、鹿児島県で対局する時に着られたらいいな、と思います」

再びタイトル戦の舞台を目指す──。口調は淡々としていたが、そんな意欲がにじむ「決意表明」だった。

タイトル獲得100期か27年ぶりの無冠か

1985年に15歳で棋士になった羽生は、デビュー当初から破竹の勢いで勝ち続けてきた。多くの人の記憶に残っているのは、谷川浩司から王将のタイトルを奪取して果たした1996年の「七冠」だろう。七つのタイトルの独占という史上初の出来事に、日本中が沸いた。羽生の「追っかけ」が現れ、各地で将棋を始める子どもたちが相次ぐほどの社会現象になった。

永世名人の資格獲得、同一タイトル19連覇──。羽生はその後も様々な快挙を成し遂げてきたが、息の長い活躍の証しが「タイトル保持期間の最長記録」だ。20歳で棋王を獲得して以降、毎年記録を伸ばしてきたが、ついにそれが途切れる時が訪れた。

2018年10月に開幕した第31期竜王戦七番勝負。連覇を狙う羽生と挑戦者の広瀬章人が互いに譲らず3勝3敗となり、決着は最終第7局に持ち越された。羽生は、勝てば「史上初のタイトル獲得100期」を達成する一方、敗れると無冠になる。山口県下関市の料亭「春帆楼(しゅんばんろう)」で12月20日に始まった大勝負は、角換(かくが)わりを採用した先手の広瀬が先攻する展開となった。

対局2日目の21日。下関の空はどんよりとした雲が広がり、時折小雨がぱらついていた。大盤解説会場には、山口県内だけでなく、遠方からも多くのファンが詰めかけた。応援で来てくれた先輩記者に聞いたところ、羽生への声援が多かったという。だが、そうしたムードとは裏腹に、中盤で優位に立ったのは広瀬だった。羽生は懸命に挽回を図るが、差は縮まらない。

「このまま終わるのだろうか」

私は報道陣が待機している部屋から、階段を駆け上がって2階の検討室に足を踏み入れた。どちらかに肩入れするわけではないが、「無冠の羽生」が現実味を帯び始めていることに気持ちの整理がつかなかった。

室内の細長いテーブルの上には検討用の将棋盤がいくつか置かれていたが、既に駒は動かされていない。立会人の藤井猛や日本将棋連盟会長の佐藤康光らは、盤面を映すモニターを見つめている。形勢の針が大きく傾き、棋士たちの検討の熱が冷めていることは明らかだった。

午後6時49分。広瀬が指した167手目▲2一銀を見て、羽生は投了を告げた。約70人の報道陣が対局室になだれ込む。カメラのレンズの多くは、敗者に向けられていた。

「結果が出せなかったのは実力が足りなかったということ。また力をつけて、次のチャンスをつかめたら」

27年ぶりに無冠になった羽生は、疲労の色を見せながらも再起を誓った。

※「第4回 豊島将之」に続く

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羽生善治/Yoshiharu Habu
1970年埼玉県生まれ。故・二上達也(ふたかみたつや)九段門下。1985年、中学3年の時に15歳でプロ入り。1989年に19歳で初タイトルの竜王位を獲得。1996年、第45期王将戦に勝利し、史上初の七冠制覇を果たす。2017年には、「永世竜王」の資格を得て史上初の「永世七冠」を達成。2019年6月、公式戦通算1434勝を挙げ、大山康晴(おおやまやすはる)十五世名人の記録を抜いて歴代単独1位に。タイトル獲得は竜王7、名人9、王位18、王座24、棋王13、王将12、棋聖16の通算99期で歴代1位。棋戦優勝は45回。2018年に将棋界で初めての国民栄誉賞を受賞。

村瀬信也/Shinya Murase
1980年東京都生まれ。早稲田大学将棋部で腕を磨き、2000年の学生名人戦でベスト16に。2003年、朝日新聞社に入社。2008年に文化グループ員になり、2011年から将棋の専属担当に。大阪勤務を経て、2016年、東京本社文化くらし報道部員になり、将棋を担当。名人戦や順位戦、朝日杯将棋オープン戦を中心に取材。Twitter: @murase_yodan

TEXT=村瀬信也

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