プロ野球、ヤクルトなどで中継ぎ、リリーフとして活躍。その甘いマスクから多くのファンに支持された五十嵐亮太が2020年をもって引退した。今、新たな人生のスタートをきり、思うこととは――。
その目に涙はなかった。
2019年10月15日の引退会見でも、その2週間後の29日に行われた引退試合でのスピーチでも、五十嵐亮太はいっさい泣かなかった。両親、妻と子供、チーム関係者(マスコットのつば九郎含む)、そしてファンに「ありがとう」と感謝の言葉を伝えるその笑顔は、現役時代のイメージそのままの爽やかなものだった。
「僕は結構泣いちゃう人。映画とか見ていても、すぐに泣きますもん。でも、ちょっと天邪鬼なところがあって、だいたい引退のときってみんな泣くでしょ。だから自分は絶対に泣かないぞってね。
でも、7月くらいだったかな、実は野球をやめるって決めたときは、妻の前でおもいっきり泣きました。ずっと結果が出なくて苦しかった。その前から年齢的にもやめなければいけないんだろうとは思っていたんです。で、日々、2軍の練習で「これが通用しなかったらやめよう」と自分を納得させるための理由を探していた。最後はサイドスローも試しましたから。だから、納得。まだ続けたいという悔しさじゃなく、もうやれない寂しさから泣きました。それはもう、いっぱい」
五十嵐亮太は1998年に千葉・敬愛学園高からドラフト2位でヤクルトに投手として入団。プロ2年目の‘99年に1軍初登板を果たすと、150キロ台後半の直球を武器に、2004年には最優秀救援投手のタイトルを獲得した。2000年、FA権を行使し’12年までメジャー3球団でプレーし、’13年にソフトバンクに移籍。セットアッパーとして活躍すると、‘19年からは古巣のヤクルトに復帰。プロ生活23年、日米通算906試合(引退試合含む)すべてにリリーフとして投げた。
「でも、やめるって決めてからの切り替えは早かったですよ。それも中継ぎだったからかな。野球の中継ぎ投手は、たとえ打たれても次の日も投げなければならない。落ち込んでいる暇はないんです。
だいたい中継ぎは試合の5~8回を投げる。試合展開をマッサージを受けながら見ていて、ブルペンに行って肩をつくる。もちろん、準備ができていないのに「いけるか?」って言われることもある。僕はどんなイレギュラーなときでも対応できるのがいいプレイヤーだと思っていたので、「どうだ?」と言われれば投げてましたね。肩ができるのも早かったですし。
逆に準備万端でも投げないこともある。気持ちが『いくぞ』って入っているから、そういうときは肩よりもメンタルがしんどいですね。
だから、これは中継ぎあるあるですが、シーズン中はお腹がゆるくて、下痢気味の人が多いんです。それが当たり前になっていてみんな気にしていないんだけど、オフになったら見事に快便になる。みんなプレッシャーを感じながらやっているんですよね。
あと、オリックスやメジャーのマリナーズで活躍した長谷川滋利さんの本に書いてあったけど、中継ぎ投手がよく見る夢がある。それは、「次いくぞ」と呼ばれるんだけど、ユニフォームがないとか、靴ひもが結べていないとか、準備ができてなくて焦る夢。そして必ず、試合に間に合わなくてどうしようというところで目が覚める。これ、結構みんな見る。
でも、野球をやめたから、もうこんな夢を見ることはないんですよね」
五十嵐はひとりで引退を決めた後、2000年代のヤクルトでキャッチャーとして球を受けてもらっていた古田敦也さんと、中継ぎの後にリリーフとして投げた現在のヤクルト監督、高津臣吾さんに2020年のシーズンを持って引退することを報告した。
「古田さんは『そうか、お疲れ』って。で、次どうしようかという相談をしました。古田さんにはことあるごとに気にかけてもらっていて、アメリカに行くときも帰ってくるときも、ソフトバンクをやめるときも毎回連絡をくれていたので、その都度相談にのってもらっているんです。
高津さんからは「今までの野球人生、楽しかっただろう。これからもっと楽しくなるよ」って言われました。高津さんは僕の性格をすごくよく知っていて「お前は楽しくないとダメだよね」って。
今思うと、僕はワクワク感とかドキドキ感を常に求めていて、結局野球をやめたのも、それがなくなっていたからなんですよね。あんなに好きな野球だったのに、そんな状態でやるのは、野球に対して失礼だし、自分にとっても後輩にとってもよくないこと。だから、これからは野球ほどじゃなくても、なにかワクワクできる、高津さんが言うように楽しいことをできたら、と思っています」
そんな五十嵐は今、バイクの免許を取るために教習所に通っている。野球選手時代はできなかったことにいろいろチャレンジしてみたいという。
「この前、お台場のBMWでバイクを見て、乗ってみたいなと。バイクなんて、現役時代は絶対に乗れませんでしたから。もし、怪我をしたらどうするんだって。あと、僕は北海道出身なので今めちゃくちゃスキーがしたいですね。昔はすごくスキーが好きでした。でもプロに入って23年間やっていない。スキーもバイクもありえませんから。アメリカだったら契約条項に入っているし、日本だとそこまでではないけど暗黙の了解で誰もやりません。だから野球選手の趣味ってだいたいゴルフとか釣りとかでしょう。要は怪我をする可能性があるのはダメなんです。
とにかく僕は知らない世界に飛び込むのが大好き。アメリカに行ったのもワクワクしたかったから。それまで見たこともないことを見たり、知らないことに触れたときの喜びや感動っていうのは最高でした。だから、これからもいろいろなことにチャレンジしたいと思っています。
今までずっと野球を追求してきたから、今度は違うことを追求したい。人がやったことのないことにトライしたい。
アメリカのマイナーにいたとき、シーズン中に急にいなくなったりする選手がいます。どうしたのかと思って聞くと、クビになったって。本当にバンバン入れ替わる。ある選手は「俺、やばいから、もう一回大学に行き直そう」って。そんな環境にいたから、もちろんメンタルは強くなったと思うし、人生はいろんな可能性にかけていいんだと思うようになった。人がやったことのないことに挑戦するのって勇気がいるけど、積極的にトライしていきたいですね。
僕が野球をやって学んだのは、辛いことを乗り越えたとき野球人としてだけでなく、人間として成長できた、というのを実感できたこと。野球をやっていると苦しいことが多くて、怪我はもちろんそうですが、それ以上にやるべきことはやっているのに結果がついてこなくて、どうすればいいのか描けないときがある。いわゆる壁ってやつ。やめたり、そこから逃げ出すのは簡単なんだけど、でもそこを抜けると、新しい自分を発見できる。まぁ、壁を越えたと思ったら、また新たな壁ができて……。結局はその繰り返しだったんですけどね。
野球をやっていたから、これからの人生、どんなことがあっても我慢はできるし乗り越えていけると思います。早く、楽しいこと見つけたいですね」
Ryota Igarashi
1979年北海道生まれ。’98年に千葉・敬愛学園高からドラフト2位でヤクルトに入団。プロ2年目から150キロ台中盤の直球を武器に中継ぎ、リリーフとして活躍した。2010~’12年の米大リーグ時代にはメッツなど3球団でプレーし、’13年にソフトバンクに移籍。‘19年からは古巣のヤクルトに復帰し、’20年のシーズンを持って引退。通算成績は日米通算906試合に投げて70勝41敗167ホールド70セーブ、防御率3.20、奪三振992。