15歳の時に初めてアメリカの地を踏んでから55年、郷ひろみは忙しい合間を縫って何度となく海外に⾜を運んできた。異国の地に⾝を置くからこそ⾒えてくるものとは。連載「郷辞苑 第10回」 【その他の記事はこちら】

⾃分の⽬で⾒なければわからないものがある
忘れもしないのは、秋も深まった15歳の時に訪れたロサンゼルスの記憶である。
僕は、あるレコード会社の副社長の家を訪れた。ビバリーヒルズの山の上にあったと思う。大きな窓から見る外の景色に驚いた。プールから湯気が立っていたのだ。温水プールだったのだ。つまりプールの水の温度より外気温が低かったから、湯気が立って見えたのだ。
それは、とても印象的だったし、そのスケールの⼤きさに圧倒された。
アメリカでは、レコード会社の副社長ともなれば、こういう家に住めるんだ。そんなことを考えていた。
1ドルが360円という時代もあったと記憶している。格安航空券などというものはなく、⾶⾏機代だけでもかなり⾼額だったため、誰もが海外旅⾏に⾏けるような時代ではなかった。
僕がデビューしてから何年か経っても、アメリカのアーティストのレコードが⽇本で発売されるのは、現地リリースされてから、3ヵ⽉ほど後だったと思う。そのくらい、アメリカは遠い場所だった。だから、なおのことあの時の、ビバリーヒルズにあったレコード会社の副社長の家に訪れた体験は、僕の脳裏に強烈に残っているのだろう。
その後、アメリカには歌のレッスンや海外公演、撮影などで何度も訪れたし、他の国に滞在する機会も得た。海外に⾝を置くことは、僕にとってさほど珍しいことではなくなったけれど、それでも毎回、新たな気づきや経験がある。
レディファーストという⽂化に触れたのも海外だった。
回転ドアで、人に譲って次から次へと人が現れ、永遠に、まるでドアーボーイのように行けなくなったこともあった。
初めてパリへ行った時、頬と頬を近づけ、右左右、と3回もキスをするんだ、と思った時がある。ヨーロッパの人はアメリカの人より、多いんだ、と思った。
握手もそうだ。敵意がないこともそうだが、信頼や敬意を伝える仕草と聞いたことがある(僕にしてみれば安心や親しみを示すものだ)。
そのたびに、僕は思う。「現地に⾜を運ばなければ、わからないこと、気づけないことがたくさんある」と。
ツールを通した景⾊は誰かのフィルターを通したもの
⽉⽇は流れ、⽇本⼈にとって海外旅⾏は特別なものではなくなっていった。1990年代には格安航空券が普及し、1ドルが150円を切ったこともあって、⽇本⼈の海外旅⾏熱は⼀気に⾼まった。卒業旅⾏で海外周遊する学⽣も増え、留学も珍しくなくなった。僕たちの頃は考えられなかったことだ。その後グローバル化の波がやってきて、⽇本と世界の距離はさらに縮まっていった。
ところが、最近は外国に⾏くことに関⼼を抱かない若者が増えているという。ここ数年、アメリカはもちろんヨーロッパやアジア圏の国々でも物価が上昇し、旅費がかさむようになったからだろうか。それとも、タイパやコスパを重視する世代には、海外に⾏くこと⾃体が効率の悪い選択に映るのだろうか。いずれにしても、もったいないことだと、僕は思う。
僕の若い頃とは違い、テレビや雑誌だけでなくSNSなどを通じて世界各国の情報がリアルタイムで⼿に⼊る時代だ。マンハッタンの⾼層ビル群も、北極のオーロラも、アフリカの⼤草原も、わざわざ⾜を運ばなくても「こういうところ」だと疑似体験できる機会があふれている。
でも、ツールを介して⽬にした⾵景や情報は、プロデューサーやカメラマン、発信者が選んで切り取ったもの、いわば誰かのフィルターを通した世界なのだ。同じ物でも、他人のフィルターを通したものと自身の目で見えるものはまった違うのだ。そこをわかってほしい。同じ建造物にしても、実際にその場所を訪れれば、正⾯からだけでなく、真横や斜め、後ろからなど、⾃分が好きな⾓度から眺められる。⽬に映るものに留まらず、⾳や匂いなど、五感で感じることも可能だ。
SNSの画像では⼼に留まらなかった⾵景も、現地に赴き、違った⾓度から⾒たら胸を揺さぶられることだってあるだろう。もしかしたら、「⾃分は建物の⼤きさではなく、細部に施された装飾に興味があるんだ」などと、⾃分の嗜好を再認識できるかもしれない。やはり、リアルに勝るものはないと思う。
それに、海外に滞在することは、異国の⽂化や⾵習に触れる絶好の機会だ。視野や思考が広がるだけではなく、⽇本という国を客観的に⾒ることにもなる。⽇本と海外との違いを知ることで、初めて気づく⽇本の良さや課題もあるだろう。だからこそ、頭と⼼が柔軟な若いうちに、ぜひ異国の地に⾜を運んでほしい。
⼾惑うことやハプニングに⾒舞われることもあるだろうけれど、それを乗り越えれば、⼀回りも⼆回りも⼤きくなれる。これは、僕⾃⾝が経験したことだから、⾃信をもって断⾔できる。
世界には驚くほど卓越した人間がいる。自分よりも凄い、その凄さに触れるだけでもいいのではないかと思う。それは、実際に行った僕の言葉だ。だから海外留学、あるいは、海外生活を考えているなら、迷わず行ったほうがいい。せっかくこの世に⽣を受けたのだから。
できるだけ多くのものをこの⽬で⾒て、感じてほしいと、僕は思う。
郷ひろみ/Hiromi Go
1955年福岡県生まれ。1972年NHK大河ドラマ『新・平家物語』で芸能界デビューを果たし、同年8月に『男の子 女の子』で歌手としても活動を開始。以降、『よろしく哀愁』『お嫁サンバ』『言えないよ』『GOLDFINGER'99』など数多くのヒット曲を世に送り出し、日本を代表するポップシンガーとして活躍。デビュー日となる2026年8月1日、70歳初シングル『I’m Neo G』&武道館全70曲完全収録ライブCDをリリース。10月24日・25日に日本武道館公演『Hiromi Go Concert Tour 2026 〜ALL MY LOVE〜THE GRAND FINAL at 日本武道館 』を開催する。著書に『ダディ』『黄金の60代』などがある。

