最新映画『雑魚どもよ、大志を抱け!』では、監督・脚本を担当。ときにシナリオライターであり、ときに映画監督、そして、小説やエッセイなどの執筆業も抱える足立紳。その一方で、共働きのなか、奥さまとともに子育てに奮闘する一面も。この多忙をやりくりする足立監督の仕事術に迫った。
足立紳監督、断然“ゼロイチ”のほうが苦しいんですが、誰もわかってくれない!
歴史に残る映画『セーラー服と機関銃』で知られる相米慎二監督の一門に加わることで、映画界に参画した足立監督。キャリアとしては、先にシナリオライターとして世に知られることとなったが、当時の足立青年は監督業に対する野望も抱いていた。結果的に、監督としてメガホンも取ることとなるわけだが、監督・足立紳と脚本家・足立紳は、別人格なのだそう。
「両方やる僕の場合はまったくの別人格。これを言っちゃうと、世の中の映画監督は怒るかもしれないので、僕の話に限って言いますよ(笑)。
0から1を作るのがシナリオライターで、1から100を作るのが映画監督。これが僕の認識です。と言いつつ、誰かが言っていた言葉のような気がしてきたなあ。普段から色んなものをパクりまくっているからよく分からなくなってきています(笑)。
僕は、いわゆる“ゼロイチ”のほうがはるかに苦しいと感じています。しかも、シナリオライターはこの大変さ、孤独さを誰にもアピールできないんです!(笑)」
徐々に恨み言のようになってきて、コメントからもどこかおかしみが誘われる足立監督。
「小説も同じですね。生み出すときは、自分を圧倒的に縛りつけます。スマホもパソコンも持たずに俗世間を完全にシャットアウト。いきつけの喫茶店で午前中のみ集中します。そうでもしないと書かない、というか書けないので。午前中に限っているのは、脳が活性化云々というよりも、単純に集中力が午後までもたないからです(笑)」
脚本家として現場の一体感とまったくかけ離れてしまうのが、「初号試写」と呼ばれる第1回目の完成試写だそう。お互いを労い合う監督やキャスト、スタッフたちの輪にイマイチ入れないのが、脚本家なのだとか(※足立監督個人の感想です)。
「輪に入れない脚本家が初号試写で何を思っているかというと、“あの傑作シナリオがなんでこんなふうになっちゃったかなぁ?”って(笑)。
キャストスタッフの皆さんは、表面的には満足そうなので、もちろん“面白くなかった”なんて脚本家は言えませんよ。もしかすると、監督としての僕もそう思われている可能性も否定はできませんしね。最近に関しては信頼できるスタッフと仕事ができていますが、以前は原作にないセリフを僕が書いて褒められていたら、いつの間にかそれは監督が書いていたことになってるなんてこともありましたからね(笑)」
ここまでの恨みつらみがあるならば、監督業においては、その「俺だったらこうするのに」を実現させているということなのだろうか。
「そうですね。ただ、組む監督によっては、“あの場面をこう撮ってくれたんだ!”と思うこともあります。例えば最近では映画『アンダードッグ』やドラマ『拾われた男』なんかに関してはシナリオから大きく膨らんで、思わず書いたことを忘れて見入りました。これは監督はじめ現場の腕力で、紙の上ではどうにもならないです。でも、おおかたは、“このシーンの面白さをいちばんよく理解しているのは僕!”という自負があるので、余計に自分で撮りたくなってしまう。もともとシナリオライター志望ではなく、演出志望だったことも影響しているかもしれません」
1を100に育てる監督業について、自身の考えがあるらしい。
「だいぶ偉そうに話してきたんですが、この場面は違う監督のほうがいいんだよな、って思うことも多々あって(笑)。だから、監督も複数で分業してもいいんじゃないかって思うんです。今回も、松本稔さんと共同脚本であるとおり、脚本は複数名関わることが結構多いので、監督も、コミカルなシーンはこの人、アクションシーンはこの人、ということがあってもいいのかなと」
一人何役もこなすことの多い足立監督らしいユニークな発想だが、これに関しては実現してくれそうな思いも、勝手ながら湧いてくる。
マイルールは、イライラしない。でも実際は、日々イライラしています!
足立監督の日常は、彼の小説やエッセイからありありと読み取れる。このたびの映画『雑魚どもよ、大志を抱け!』は、自身の小学生時代がモチーフとなっているし、小説『乳房に蚊』や『それでも俺は、妻としたい』などは、足立家の夫婦生活そのもののようだ。
そんなリアルを作品に落とし込む足立監督の、仕事におけるマイルールは存在するのかと問うと、少考ののち、「イライラしないこと」と絞り出してくれた。だだし、即座に、「全然できてないんですけど」と、注釈を入れてくる。
「逆説的に言うと、“イライラしなければ、もっといい仕事ができるのにな、オレ”ということなんです。家庭では、妻と思春期の娘からかなりひどい扱いを受けているし、ASⅮの息子はかわいいけど、コミュニケーションがうまく成立しないことも多々あるのでイライラが溜まる(笑)。行きつけの喫茶店から買い物などをして帰宅すると、もう我が家のごたごたに巻き込まれてしまう」
この話を聞いているだけで、作品世界から感じる足立家の日常そのものである。ただ、一歩引いてみれば、自然体で子煩悩、家庭と仕事をバランスよくこなしている。そんなふうにも見えると私見を述べると全否定。
「自然体というより、もう“クソミソ一緒”って感じで。仕事も家庭のゴタゴタも並行して進んで行ってますね(笑)。
モノの本を読めば、やれ6秒待てだの、やれ深呼吸を3回しろだの、アンガーマネジメントの類も情報としてはあるんですが、無理です(笑)。6秒ルールでコントロールできる人はすごい人。もっと家族に労られたいんですけどね、僕は。そうこぼすと妻から“自分だけ労りを求めやがって!全員いたわりを求めてるんだよ!”と責められる。僕は普段全員を労わっているので、“労り返し”を求めているだけなんですけど、それも認められない」
セックスしているときは労われている?と問うと、すごい冷たい目で「私は、お前の性欲処理マシンじゃねえ」と妻に言われることもあるそうだ。
日常のやりとりのリアリティは、足立作品の真骨頂。一方で、こうした“家庭暴露”のような稼業は、奥さまから責められないのかと水を向ける。
「全然大丈夫なんです。むしろ現実より小説のほうがマイルドですから。周囲のママ友・パパ友から“あんなに書かれて大丈夫なの?”と心配されて初めて、自分が恥ずかしい思いをしていることに気づくみたいです。それでも僕の映画や小説のネタに自身の心身を投げ出してくれるところは感謝しています」
作風に関しては、「結局妄想力がないから、自分の経験からしか書けないんです」という自己評価をされている模様。「ただ、壮大なストーリーのものもあるから、いつかは実現したい。しょうもない身の上話と大きな話の二本立てができるのが理想」だそう。
小学生時代、担任と家庭との情報共有をする交換日記のような帳面があって、当時は、そこに母親の口述筆記のエピソードを記すのが慣わしだったんです。母はそこに嬉々として家庭の恥部を書いた。今日、パパとママが大ゲンカして僕はサイテーな気分になって妹に八つ当たりして泣かしましたみたいな。なんで、家庭の恥部を晒さなきゃならないんだ、って嫌がっていましたが、結構それが先生にウケて、そこで、自分の恥部を晒すということを学んでたのかもしれませんね(笑)」
人生の「格好悪い」も、「うまくできない」も、受け入れて、ありのままの人間を描いていく。リアルと虚構のあいだを悠々とすりぬける足立作品。今後も目が離せそうもない。