PERSON

2020.09.20

「7枚のマスク」で頂点に駆け上がった大坂なおみが伝えたかったこと【コロナ禍のアスリート】

約1年の延期が決まった東京五輪。本連載「コロナ禍のアスリート」では、まだまだ先行きが見えないなかでメダルを目指すアスリートの思考や、大会開催に向けての舞台裏を追う。

議論の活発化を願った2週間

無観客のスタジアム。静寂の18秒。 優勝を決めたコートで仰向けになり、見つめた空には不当な暴力で命を落とした数々の黒人犠牲者の顔が浮かんでいたのかもしれない。2018年全米、2019年全豪に続く、4大大会3勝目。世界が注目した2週間の戦いを終えた大坂なおみ(22=日清食品)は「多くの偉大な選手が倒れ込んで空を見上げていたので、どんな景色が見えるのかと思った。信じられないくらい素晴らしい瞬間だった」と実感を込めた。

人種差別へ抗議を示す使命を自らに課し、決勝までの試合数に合わせ7枚の黒人被害者の名前入りマスクを用意。初戦後に「皆に全てを見てもらいたい」と宣言し、有言実行した。優勝インタビューで「どんなメッセージを伝えたかったか?」と問われると「どんなメッセージを受け取りましたか?」と逆質問。最後まで議論の活発化を願った。

心は折れなかった。元世界1位のアザレンカとの決勝。第1セットは絶好調の相手に為す術なく、1-6。第2セットも第2ゲームで先にブレークを許したが、諦めなかった。第3ゲームも先行を許しながらジュースの末にブレークバック。一気に流れを変えて、白星を引き寄せた。全米の女子シングルス決勝で第1セットを失っての逆転は1994年以来26年ぶり。大会中に被害者家族から受け取った感謝のメッセージも力となった。

父フランソワさんが貧困国ハイチ出身、母・環さんが北海道生まれ。3歳で米国移住したマイノリティーの立場が、人権意識の原点だ。5月25日。警察官に膝で首を押さえつけられ「息ができない」とうめいたジョージ・フロイドさんの動画に衝撃を受けた。6月に交際中の人気ラッパー・コーデーと事件が起きたミネソタ州ミネアポリスのデモに参加。追悼式にも出席し「“人種差別主義者ではない”では不十分。“反人種差別主義者”にならないといけない」と誓った。

優勝後の会見にはレーカーズの背番号8のユニホームで臨んだ。1月にヘリコプター墜落事故で亡くなった元NBAのスーパースター、コービー・ブライアント氏は兄と慕う存在だった。人種差別への抗議を決めた背景にも、少なからず影響がある。同氏は引退後の2017年にNFLやNBAで人種差別への抗議として国歌斉唱時に起立しない行動が起きた際「私も現役なら参加した」と賛同。大坂は「自分のしたことを彼が誇りに思ってくれたらうれしい」と思いを馳せた。

もちろん勝因は精神面だけではない。技術、体力の進化にも目を見張るものがあった。6月。フィセッテ・コーチ、中村トレーナーら「チームなおみ」の面々が米ロサンゼルス・ビバリーヒルズの高台にある大坂の自宅に集結した。過去には歌手で俳優のニック・ジョナスが住んでおり、5つの寝室と4つのバスルーム、暖炉、ジム、ジェットバス付きプールもある。購入価格690万ドル(約7億3140万円)の豪邸で、全米の前哨戦まで約10週間の合宿を実施した。

昨年12月に就任したフィセッテ・コーチが着手したのが凡ミス減に向けたフットワークの改善だった。「全てはフットワークから始まる。豊(中村トレーナー)に頼み、徹底的にトレーニングした」と体幹と下半身を重点的に強化。スイングスピードを上げる技術面の修正も行い、ストロークの安定感が増した。

ツアー中断前、最後の公式戦では世界ランキング78位の格下に50回の凡ミスを犯して敗戦。ミスがミスを呼ぶ悪循環に陥り自滅するのが負けパターンだったが、全米では準々決勝のロジャース戦で凡ミスをわずか8回に抑えるなど、自ら崩れることはなかった。低い姿勢を保ち、走らされても軸がぶれないフットワークは練習のたまもの。大坂は「外出自粛期間中もほぼ毎日テニスをしていた。凄いケミストリー(化学反応)が起きた」と振り返る。

全米制覇により、世界ランクは9位から3位に浮上。生涯獲得賞金は女子歴代22位の1777万234ドル(約18億8424万円)となり、李 娜(り・な/中国)を抜きアジア人トップに立った。

国際テニス殿堂入りの条件となる「4大大会3度優勝かつ世界ランキング1位13週間以上」もクリア。現役引退から5年後に正式に資格が発生し、投票で75%の賛成が得られれば殿堂入りが決定する。

1960年代、ムハマド・アリは徴兵を拒否し収監された。'68年メキシコ五輪の表彰台で黒い手袋をして拳を突き上げたトミー・スミスとジョン・カーロスは、五輪から追放された。かつてはアスリートが、政治的発言をすることはタブー視されたが、今は違う。大坂は「7枚のマスク」とともに頂点に駆け上がり、多くの支持を得た。「伝えたかったのは疑問に思うということ。人々が人種差別の議論を始めてくれればいい」。

テニス界の顔として、今後も行動を続ける。

TEXT=木本新也

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