PERSON

日本を代表するグランメゾンの矜持:三國 清三

『オテル・ドゥ・ミクニ』オーナーシェフ
三國 清三

30歳で『オテル・ドゥ・ミクニ』を開業し、日本のフレンチに革新をもたらした三國清三。世界最高峰の7つの三つ星レストランで腕をふるった彼の料理人人生の端緒は意外な食べ物だった。


18のレストランの鍋をピカピカに磨く

札幌グランドホテルから帝国ホテルを経て、20歳にして駐スイス日本大使館料理長に就任、その後は『ジラルデ』『トロワグロ』『アラン・シャペル』など数々の世界最高峰の三つ星レストランで腕を磨く・・・という経歴を知れば、誰もが三國清三はそういう星の下に生まれた人間なのだと思うに違いない。

けれど、華々しい経歴だけでは、彼の人生の半分を語ったことにしかならない。

三國は増毛と言う北海道の小さな漁村に生まれた。中学校を卒業すると、札幌の米屋で住み込みの丁稚奉公を始める。中学校のクラスで高校に進学しなかったのはふたりだけ。その米屋の娘が作ったひと皿のハンバーグから、彼の人生が始まる。

「そんな食べ物を見るのは生まれて初めてだから、何だかわからないわけです。こわごわ箸を伸ばしたら、こんな旨いものが世の中にあったのかと(笑)。恥ずかしながら聞きました『何て料理だべ?』って」

ハンバーグが自分の人生を決めたと言って三國は笑う。米屋は夜学に通わせてくれた。三國は夜間調理師学校を選んだが、それで卒業後の進路が決まった。札幌グランドホテルだ。

「娘さんが言うわけ。札幌グランドホテルのハンバーグはこんなもんじゃないって。そこに就職したいって言ったら、絶対無理だと。高卒以上じゃないと採用してくれないわよって」

札幌グランドホテルでテーブルマナーの研修があった。その帰り際、三國は一計を案じてレストランの厨房に隠れる。

「責任者が来るまで隠れて、飛びだして直談判したの。働かせてくださいって。呆れられたけど、切々と訴えたら、パートなら飯炊きのおばちゃんがひとり辞めたとこで空きがあると。従業員用の飯炊きだから、厨房に立てるわけじゃないんだけどさ」

半年夢中で皿や鍋を洗い続けてたら、特例で正社員にしてくれた。寮の部屋に帰らず、厨房で朝までオムレツをつくり、肉を焼く練習をした。休みの日は鶏肉工場で鶏を捌いた。18歳になる頃にはレストランの料理で作れないものはなくなっていた。

「先輩が言うわけですよ。『お前はここで天狗になってるけど上には上がいる。東京の帝国ホテルには、村上信夫というフランス料理の神様がいるんだ』って。紹介状を書いてもらって、津軽海峡を初めて渡りました。村上さんは帝国ホテルの総料理長、1000人の料理人の頂点。会ってはくれたけど、オイルショックで正社員の依願退職を募っている時期だった。パート扱いの洗い場にしか空きがないと。で、また皿洗いに逆戻り。だけど、なんとかなると思っていた」

ところが2年間皿洗いを続けても、社員への道は開かれなかった。8月10日の二十歳の誕生日に、今年いっぱい働いて増毛に帰ろうと決める。そしてその日から毎日、ホテル内のレストランの厨房を回って鍋を洗った。

「帝国ホテルには18店舗のレストランがある。鍋洗いは誰もやりたがらないから、喜んでやらせてくれた。最後に爪痕を遺したかったんです。下働きしかできなかったけど、俺は帝国ホテルのレストラン全部の鍋をピカピカに磨き上げたんだって」

3ヶ月後に奇跡は起きた。

何十もの肩書きを持ち、恐ろしく多忙な現在も可能な限り厨房に立つ。料理をすることは彼にとって生きることなのだ。

君の料理長はなぜ、僕の好みを知っているんだ?

「10月末、村上総料理長に呼ばれてね。『スイスに赴任する大使が専属の料理人を探している』って仰るわけですよ。『君を推薦したからな』って」

三國をスイスに送った理由については、村上が自著に記している。やる気があって、よく気がつくこと。塩振りが巧みなこと。そして、鍋洗いの要領とセンスがいいこと……。神様は三國をよく見ていたのだ。

ジュネーブに着いた夜に、大使就任の晩餐会の準備を早速命じられる。主賓はアメリカの大使夫妻だった。

「フルコースのディナーなんて一回も作ったことがない。だけどやるしかない(笑)。機転は昔から利くほうなんです。 通訳に頼んでアメリカ大使が使うレストランを調べて、日本大使館の料理長が厨房で3日間研修をしたいと申し入れた。前菜からメインまで、アメリカ大使の好みから食材の仕入れ先まで、全部教えてもらって丸暗記。晩餐会は大成功でした。大使が厨房に顔を出して、アメリカ大使が喜んでくれたと。だけど不思議がってたと仰る。『どうして君のところの料理長は、僕が好きな料理を知ってるんだ?』って(笑)」

ローザンヌ郊外に、スイス銀行の金庫を破るより予約が難しいといわれたレストラン『ジラルデ』があった。大使館に勤めた3年8ヵ月間、休日はすべて返上してその厨房で働いた。そのきっかけも三國らしい。

「ある朝、働かせてくれって押しかけた。門前払いされたんだけど、店の表に夕方まで立っていたら、ジラルデさんが『客の邪魔だ』って、襟髪を摑まれて厨房に押しこまれた。洗い場を見たら、汚れた食器が山になってあるわけ。しめたと(笑)。食器を全部洗ってたらジラルデさんがやってきて、困った顔で『お前はどうしたいんだ』と」

『皿の上に、僕がある。』は開店翌年に出版した著書。料理書では異例の18刷を重ね、海外の料理人の間でも話題に。その後、5年の歳月を費やして2019年に出版した『JAPONISÉE Kiyomi Mikuni』は「グルマン世界料理本大賞2020」でHall of Fameを受賞し殿堂入りを果たしている。

天才の顔の裏に隠された努力と悪戦苦闘

この時から、厨房のモーツァルトと謳われたフレディ・ジラルデが、三國の本格的なフランス料理の師となった。ジラルデは三國を気に入り、三國が大使館を辞すると正式に雇用する。

「それも驚くほどの高給で。ジラルデさんに認められたのが自信になりました。その後はフランスの三つ星レストランで修業をしましたが、どの店でも最初からフランス人と同じか、それ以上の給料を要求しました。そうでないと、重要なポジションを与えられない。どこでも大歓迎でした。彼らはキャリアにきっちりと敬意を払うから。そうでなければ、7つもの三つ星レストランでは働けない」

三國は28歳で帰国。その2年後、東京の四ツ谷に『オテル・ドゥ・ミクニ』を開業する。1985年のことだ。その最初から、彼は時代の寵児だった。

30歳の若さで天才料理人の名をほしいままにする三國を、羨む人も少なくなかったはずだ。けれど彼らは知らない。天才の顔の裏に、どれだけの努力と悪戦苦闘が隠されているかを。

「米屋の頃から、休みを取ったことがない。それを苦労とは思わない。楽しいから。子供の食育も、店の休日に20年続けてる。増毛時代、時化(しけ)の後、父とよく海岸に打ち上げられた魚を拾いに行った。食べるためにね。必ずほやがある。そのほやが僕の味覚を育てた。ほやには五味、甘酸塩苦旨すべての味があるから。今の子は恵まれてるけど味覚が育ってない。なら、それを伝えるのが僕の使命。そんなこと考えてたらさ、休んでる暇なんてないんです」

35年来のスタッフが語る、三國清三

ものすごいパワーがある。天才肌だと思いました

フランスから帰国する以前から「すごい料理人が帰って来る」と評判になってました。開業すると、政治家や芸能人など有名な方々がたくさんいらして、サービスは緊張しましたね。すごいパワーで、料理の天才なのは間違いないけれど、それ以外はほんとに普通のオジサンです(笑)。

「オ テル・ドゥ・ミクニ」ディレクター・押切博明

※ゲーテ2020年2月号の記事を掲載しております。掲載内容は誌面発行当時のものとなります。

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