例年ならば、祇園囃子がそこここから聞こえる京都の7月。「京都に夏がやってきた!」と、町に暮らす人が心を躍らせ、皆で「平安を祈る」時でもある。だが、新型コロナウイルスの影響で令和2年の祇園祭 (祇園御霊会) は規模を縮小して執り行われることに……。1150年という長い歴史のなかでも、異例の形として執り行われる「令和2年の祇園さん」を5回連載でお伝えしたい。4回目は、動く美術館と称される山鉾(やまぼこ)の歴史と巡行自粛への想いを祇園祭山鉾連合会理事長 木村幾次郎さんに聞いた。
山鉾巡行はお神輿をお迎えする清めの儀式
「令和2年の山鉾巡行は中止」と発表され、京都市民は皆一様に寂しい気持ちになった。7月1日の?符入(きっぷいり)、2日のくじ取り式に始まり、10日に前祭(さきまつり)の山鉾が建ち始めると、曳き初めを行ったり、粽(ちまき)の準備をしたりと町内が慌ただしくなる。
そして、14日から16日は前祭の宵山(よいやま)。山鉾のお披露目と同時に屛風を飾って公開する家があるなど、町は一挙に賑やかに、そして華やかになるのだ。コンコンチキチンという祇園囃子の音色が町に響くなか、町衆たちが顔を輝かせ巡行に臨む。そんな晴れやかな祭事が、今年はほぼ行われない。山鉾連合会のなかでも、催行するかどうかについてはさまざまな意見があったと聞く。
「これまでの長い歴史、またこれから先のことを考えると、今年無理をして巡行したところで、もしも何かあったら先に継げません。令和2年は最小限にすることが正しいという結論に達しました」と話す、祇園祭山鉾連合会理事長 木村幾次郎さん。ご本人も幼い頃から長刀鉾(なぎなたほこ)の囃子方を務めてきたという。
貞観11年に祇園御霊会(ごりょうえ)の祭礼が始まり、昨年1150年を迎えた。鎌倉期から室町期に山鉾行事は始まったといわれるが、木村さん曰く、「応仁の乱ですべての記録が焼けてしまい、実際に山鉾巡行がいつ始まったかなど正確なことはわからない」そうだ。
「そういう意味では、応仁の乱以降、明応9年(1500年)に再興された山鉾行事が我々の歴史といえます。神輿を洛中に迎えるにあたって、祇園社から御旅所(当時は下京と上京の二ヵ所)に神輿がおりてこられるための清めの儀式でした。室町期は、幕府と比叡山の間でさまざまな諍いがあった時代です。“神事これなくとも山鉾は渡したし”と町衆が乞うたこともあり、神事である神輿渡御と山鉾行事とは分離されていった歴史があるのです」
つまり、神輿渡御が執り行われなくとも、山鉾を建て巡行したということだ。また、戦国時代になると朝廷の力も弱まり、山鉾行事は町衆の祭として独自の進化を遂げていく。
「無政府状態になり、自分たちの町は自分たちで治めなければという自治意識ができてきます。その名残で、未だに町内というものが京都に於いては重要な組織なのです。そして、町内という組織に、山鉾がシンボルとして存在します」
山鉾は文化財と伝統技術の集積ともいえる宝である
桃山期になると四条室町は日本経済の中心になり、世界中の文物が集まってきた。町衆たちのエネルギーが山鉾を華美なもの、巨大なものにし、さらには世界中の珍しい文物が飾られるようになった。
「たとえば絨毯などもその一つでした。京では本来の使い方がわからず、鉾のタペストリーとして使われることになりました。日本以外の国では絨毯として使い潰しているのに比べ、山鉾では懸け物として使い、美しいままに残ることになったのです。今では大変稀少なものとして文化財にも指定されています」
絨毯はヨーロッパだけでなくインドやペルシャ、中国などから渡ってきた多彩なものであった。なかには鎖国以前に渡来したゴブラン織物などもあり、それらは今や、世界的にも珍しいものとして残っている。
「多くの文化財が残っていることも、祇園祭の魅力のひとつとなりました。上京は西陣があり織物産業が発達し、下京は衣料(呉服)などを扱う商家が集まっていたことから、贅を尽くして華やかなものをつくっていったのでしょう」
京都の町は江戸時代に3度大火に遭うが、その度に当時の最高の文物や技術を使い山鉾を復活させた。焼けたことで、再生技術が隆盛を迎えていくのだ。鉾建てや道具づくりなど、それぞれが技を競いながら極まっていく。「となりの町内よりうちの鉾が素晴らしい」。そう想いたいからこそ、知力を尽くしてきたのだという。
「山鉾巡行は、時々の苦難を常に乗り越えてきました。蛤御門の変で京の町は被災し、経済的に困窮した時期もありました。町内だけで山鉾を維持するのは苦労があったろうと思います。明治になって市電の電線を引くため、京都府から巡行廃止命令が出ましたが、町衆が反対して結果的には巡行は行われました」
夏の暑いさなかに巡行するから、「暑さに負けず健康で祭を終えられるよう、疫病などに負けずにいよう」という願いが、巡行行事には常に込められていたと木村さんは言う。
令和2年は粽など授与品に願いをこめて
山鉾を建てれば、どうしても人が集まる。三密になってしまうことから、今年は、山鉾行事を自粛することとなった。明治期にコレラが流行った際は延期にしたが、生活環境や世界情勢も違う今は、同じようにはいかない。今後もウイルス問題のほか自然災害などさまざまな問題に備えていくことが肝要だという。
「文化の継承も山鉾行事の役割です。たとえば今年の秋に刈り取った藁を干して、来年の春から鉾建てに用いる荒縄にする。そのような材料や道具、人々の技術の継承も大切なのです。けれど今年は鉾建てがないので、それらの継承が、ある意味1年飛んでしまう。1年に1度の巡行がなければ、若い人は経験できない。来年は心して臨まなければいけません」
今年の例がこれからの前例になることも見据え、粽購入等の資金を集めようと、クラウドファンディングを立ち上げたところ、世界中から寄付があり1千万円ほどが集まったそうだ。農家の方が1年かけてつくった粽は山鉾連合会で買い取り、寄付のお礼品として授与している。
「祇園祭は皆さんに愛され、関心をもっていただいていることを改めて実感したと同時に、先人が残してくれた宝を、私たちは身を引き締めて守らなければと思い知らされました。台風の時は新幹線なども止めて災害に備えます。祇園祭の本意が疫病退散であったとしても、人の命や健康に関わることがあってはいけない、あるいは文化財を損なってしまうことがあってはならない。ですから、今年は粛々と自粛をして、来年のために想いやエネルギーをためこむ時であろうと思います。お祭りはそういうものだということです。500年間続けてきた山鉾巡行に悪い印象や負の歴史を残してはいけません」
各町内会では、密にならないようそれぞれ工夫して、粽の販売などを行っている。また、7月26日までの期間は「京都文化博物館」で山鉾のお宝を一挙に集めた『祇園祭展』が開催されている。
荘厳な山鉾を間近に見られないのは残念だが、町衆のこれまでの歩みや文化財を保存してきた苦労を想うと、今年の中止は正しいことだと思わされる。来年こそは、すべての神事、祭事が行われることを祈り、粽を軒先に掲げたい。