チャレンジ・アンド・エラーを重ねることで、経験値が増える。そのなかで自分の武器を知り、結果を手にし、身につけた自信が、新たな成長や進化を後押ししてくれる。
そんなふうにステップアップするのは、ビジネスパーソンもアスリートも同じだろう。
しかし、プロ・アスリートが持つ時間は、決して長くはない。加齢とともに当然フィジカル的な衰えが生じる。戦術や戦略などの進化や変化のスピードも速い。たとえば、チームスポーツならば、指揮官が変われば、求められる選手の資質が変わり、生存競争の基準変更も容赦ない。
長くトップレベルの舞台で戦い続けるアスリートは、自分を含めたあらゆる変化をどう受け入れているのか。そして、常に自分らしく輝けるのはなぜか?
42歳、現役のプロサッカープレーヤー遠藤保仁に独占インタビューを行った。【後編】はこちら。
昔の自分、プライドは捨て去る!
2020年10月、20シーズン在籍したガンバ大阪から、J2のジュビロ磐田へ移籍。翌'21年にはJ2優勝を果たし、J1昇格へとチームをけん引した。
「J1でどれだけできるのかという眼で見られると思う。僕がバリバリ代表で活躍していたときと同じプレーができるわけじゃないので、今のありのままの自分でプレーしたいと思います。そのなかで、楽しいプレー、美しいプレー、キレイなプレー、がむしゃらにやるところも、すべて、お見せできればいいなと思っています」
42歳になったばかりの遠藤保仁の言葉からは、ハードワークやフィジカルの強さが重視される昨今のサッカーへの静かな挑戦の想いが感じられた。
──'20年の秋に、長く在籍したガンバ大阪から磐田への移籍を決断されました。
「あの年はほとんどの試合でベンチ入りしていましたが、出場時間が短く(先発はわずか3試合)、自分自身がやりたいサッカーがあまりできていなかった。ベンチに座っているよりも、フィールドに立って試合をしたいという想いが強くありました。この年齢になると1度休んでしまうと、コンディションを元に戻すのが難しい。試合に出続けたほうがコンディションを維持できるんです。トレーニングだけで補えるものは限られているので、そういう現状を含めて、新しいチャレンジがしたいと思ったんです」
──試合に出られない、監督に選んでもらえないという現実によって、弱気になることはありましたか?
「なかったですよ。当時のチームのサッカー、戦い方、方向性が決まっていて、それは僕寄りの戦い方じゃなかった。自分の特長を生かせるものではなかったんです。そうなれば、自然と(監督が選ぶ)優先順位は変わってくる。それを理解し、チームのサッカーの変化や現実を受け入れながら、試合に出たら、自分の持ち味で違いを出せればいいというふうに考えていたので、弱気になったりはしなかったですね」
──当時のガンバ大阪のサッカーは運動量重視の堅守速攻でした。監督が求めるそんなサッカーと御自身のスタイルがフィットしないという現実を受け入れたとしても、葛藤は小さくなかったのではないでしょうか?
「そうですね。監督が求めるものが、自分が一番得意としているプレースタイルと違うのであれば、フィールドに立つチャンスは少なくなるのは、どんな監督であっても同じです。『自分ならこうしたい』というのがあっても、メンバーを選ぶのはボスの仕事ですし、監督が求めるレベルに達していなかっただけだと」
──いわゆる「不遇」という立場だったと思うのですが、監督の立場を尊重した振る舞いを求められたんじゃないかと。
「経験を重ねた選手、僕もそうですが、周りを観察しながら、コミュニケーションをとらないといけない。そういうフィールド外での立場や仕事は若い時とは若干変わってきます。監督が求めているサッカーとかけ離れたことをすれば、チームもひとつにならないので、最低限のことはやらなくちゃいけない。ただ、それだけをやっていても、自分の特長と合っていないのであれば、自分の持っている武器を発揮する機会がなくなってしまいます。だから、武器を発揮する勇気も必要です。そのうえで、監督を納得させるような結果が求められる。それを考慮し、そういうパフォーマンスができるなら、リスクを負ってでもやるべきことがあると思っています」
──試合に出られない、チームの力になれていない、という現実を受け入れた結果、引退を決意する選手もいます。移籍しようと考えたのは、“自分に合ったサッカーであれば、まだまだやれる”という想いの表れだったと感じました。
「そうですね。やれると思っていたと思います。自分が最大限生きるようなチームへ行けば、全然大丈夫だと」
──そして、ジュビロ磐田では加入直後から大きな存在感を示していました。
「僕のプレースタイルをチームメイトがみんな知っていたのは、大きかったですね。自分がこういうプレーヤーだというのを示す必要がなかったので。僕はチームメイトの特長をつかめれば大丈夫だと考えていました。パスの出し手と受け手のタイミングさえ合えば、難しい作業ではなかったです。そのなかで僕が『こうしたいから、こうしよう、こうしてほしい』という言い方はしていないはずです。ジュビロが実践しているボールを握って攻撃へ行くというサッカーに僕がはまったというだけで、自分が主張してという感じはなかったですね」
──40歳を過ぎました。年齢による衰えは感じますか?
「全然感じますよ(笑)。どっちかっていうと試合後ですかね。昔はあっさり回復していたのになとか、次の日の朝、体が痛いとか、リカバリー的な部分が大きいですね。もちろん、すべての面で間違いなく衰えていると思いますけど、それをカバーする技術だったり、先を読みながら、予測しながらプレーするということは、若い選手にはなかなか無いと思いますね」
──そんな衰えている自分をどう受け止めているのでしょうか?
「認めていくというのは難しいことだと思います。でも、昔の自分を忘れるということです、昔のプライドだったり、そういうのを捨てれば大丈夫ですよ」
※後編はこちら。
Yasuhito Endo
1980年鹿児島県生まれ。日本代表国際Aマッチ出場数最多記録保持者。'98年に鹿児島実業高校から横浜フリューゲルスに入団、京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)を経て、2001年、ガンバ大阪に加入。ガンバ大阪では数々のタイトル獲得に大きく貢献し、'03年から10年連続でJリーグベストイレブンに。日本代表としても、3度のワールドカップメンバーに選ばれる。'20年7月4日にJ1最多となる632試合出場を達成。'20年10月、ジュビロ磐田にレンタル移籍し、'21年には、史上初の22年連続開幕戦先発を達成。'22年シーズンより磐田に完全移籍。